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闘いつづける経営者たち


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01.円高、経営危機との闘い

円高が続いている。タカラトミー社長の富山幹太郎(とみやま・かんたろう)は「円高で国内景気が悪くなって消費が落ちるのが心配」というが、表情に悲壮感はない。富山は口にしないが、製品のほとんどを中国・アジアで生産している同社にとって、円高は経営上プラスに働くのだろう。
 むしろ同社製品の8割程度を生産する中国の状況に気を配る。労働力不足、労賃のアップ、そして人民元の動向だ。富山は「あと何年かで中国にプラザ合意のような状況がくるだろう」とよむ。すでに中国からベトナムへのシフトに着手した。富山が為替に敏感なのは25年前の苦い経験があるからだ。

再建めぐり父親と6カ月闘う

父であり先代社長の允就(まさなり)氏

父であり先代社長の允就(まさなり)氏

1985年秋、トミー工業(現タカラトミー)に激震が走った。
 9月22日、ニューヨークのプラザホテルに集まった先進5カ国の蔵相・中央銀行総裁はドル安誘導政策に合意、いわゆる「プラザ合意」を発表した。1ドル240~250円だった円相場は急騰し、86年末には1ドル160円を突破した。
 売り上げの6割以上を輸出に頼っていた同社は危急存亡の危機に立たされた。当時、国内工場の生産高は280億円くらいだったが、円高が進めばいずれ経営は立ち行かなくなる。「なにもしないでいれば、20億円や30億円ずつ落ち込んでしまう状況」の中で、富山幹太郎と、父で先代社長の富山允就(まさなり)との再建をめぐる"闘い"が始まった。

閉鎖前の流山工場

閉鎖前の流山工場

富山は英国留学から戻った82年、28歳の時に入社した。最初は後継ぎとしてのお披露目の意味もあったのだろう、国内の営業などを経験した後、米国販売子会社のトミー・コーポレーションに赴任する。そこで日本で作ったおもちゃは値段が高いことを、身をもって知った。トミーの香港やシンガポールの生産拠点から直接、米国に輸入した方がかなり安かったのだ。
 富山は本社に対し「米国子会社としては香港やシンガポールから100%買った方がいい」と進言した。本社からは「それはまかりならぬ。半分は日本の工場で作った商品を買え」との答えが返ってきた。富山は「米国で何を失うかというと競争力を失うのです。マーケットを失ってもいいから日本の工場を守れというメッセージだ」と感じながら、1年3カ月後、次期社長含みで本社に呼び戻された。

3工場閉鎖のリストラ断行

流山工場内の様子

流山工場内の様子

本社に戻った富山を襲ったのが、プラザ合意による円高だった。売り上げ減少で赤字転落、経営危機である。富山は言う。「経営危機の答というのは意外にシンプルなのです」。国内の工場が多いだけだから、工場をサイズダウンすれば、ひとまず落ち着くと考えた。当時は栃木県壬生町のおもちゃ団地に2つ、千葉・流山と東京・四つ木にあった4工場のうち3工場の閉鎖を提案した。
 一方、社長の允就は「これから円安になるかもしれないじゃないか。閉鎖するのは1工場だけだ」とがんとして受け付けない。それで「おやじと喧々諤々、果てしない喧嘩を続けた」。富山は「この経営危機の中で社長をやれというなら、僕の肩に工場を三つも載せないでくれ」と一歩も譲らなかった。

社長就任時

社長就任時

親子喧嘩で貴重な6カ月を費やしたが、結局、トミーは壬生の1工場を残して3工場の閉鎖を決断。国内に1000人いた従業員のうち600人を削減する大リストラを断行した。富山は労働組合との交渉から資産の売却までリストラの先頭に立った。工場閉鎖だけでなく、リストラ資金調達のために「一番資産価値があったので」自分が直前までいた米国子会社まで売却した。一段落して富山が3代目社長に就任したのは86年12月になってからだった。

おやじに似てきた?

プラレールは発売から50年以上が経つロングセラー商品。写真は新型スカイライナー

プラレールは発売から50年以上が経つロングセラー商品。写真は新型スカイライナー

富山は「創業者で祖父の栄市郎はバサッとやれる人でしたが、おやじはやさしい人で、整理ができなかったのですね」と述懐する。2代目の允就はおもちゃの開発が好きな根っからの技術屋だった。允就の手によるヒット商品は数えきれない。鉄道玩具の「プラレール」、ミニカー「トミカ」など今でも主力製品として売れ続けているものも少なくない。

トミカを開発した70年当時、こうしたおもちゃを作れる工場はなかった。また、おもちゃの材料が金属からプラスチックに変わった時も今までの工場では作れなかった。そのため、允就は製品の開発と工場の設計をセットで行った。「自分でつくった工場をつぶすのも、一緒にやってきた社員の首を切るのも忍びなかったのでしょうね」という。

富山は「僕にはそういうセンチメンタルなところも、しがらみもないからリストラができたのだと思う。05年におやじが死んでから、おやじの思いも分かってきましたね。最近、僕の言うことがだんだんおやじに似てきたといわれるのですよ」と笑う。

富山 幹太郎 プロフィール

1954年(昭和29年)東京都葛飾区生まれ。82年英国ハル大学卒、同年トミー工業入社。86年トミー工業、トミー社長就任。89年トミー工業、トミーの合併及び商号変更により、トミー取締役社長就任。06年タカラトミー代表取締役社長就任。現在に至る。

企業データ

株式会社タカラトミー

〒124-8511
東京都葛飾区立石7-9-10
事業概要:玩具・雑貨・カードゲーム・家庭用ゲームソフト・乳幼児関連商品等の企画、製造および販売
設立:1953(昭和28)年1月17日
資本金:34億5953万円
従業員数:649名(2010年3月31日現在)


掲載日:2010年11月29日


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