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闘いつづける経営者たち


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02.「まずい!」と感じたら即行動

夢を追いかけた10代

留学を決意するまでクラシックバレエに夢中になっていた(写真上段が田中社長)

留学を決意するまでクラシックバレエに夢中になっていた(写真上段が田中社長)

田中秀子社長には、短期大学卒業まで会社を継ぐ意思が明確にはなかった。田中専一会長の長女で専一会長には息子がいなかったが、当の会長自身も「小さなころから帝王学を学ばせるという感じではなかった」(田中秀子社長)。なによりも、田中社長には別の夢があった。
 小学校低学年のころ、田中社長は近所に住む年上の女の子がクラシックバレエを踊っている姿を見て衝撃が走った。それ以来「憧れのお姉さんになり、クラシックバレエに夢中になった。高校卒業まで続け、トウシューズで鬼ごっこができるくらいになっていた」(同)と思い返す。
 高校卒業の時期になると、大学には進学せず米ニューヨークにバレエ留学することを決意。だが、渡米の準備を整えた田中社長に思いもよらぬ出来事がおこった。

ジャズクラブで歌う田中社長。大卒者初任給の数倍のお給料をもらうこともあった

ジャズクラブで歌う田中社長。大卒者初任給の数倍のお給料をもらうこともあった

腰に激痛が走った。3カ月の入院の末、医師から告げられたのは「日常生活に支障はないが、プロのバレエダンサーになるのは無理」という10代の女の子には非情な言葉だった。
 小学生のころからの夢を諦めなくてはならなかった田中社長は、喪失感に苛(さいな)まれたまま山脇学園短期大学英文科に入学。入学するも学問に身が入らず、ジャズボーカルの教室に通い始めた。
 同教室主催の発表会で歌ったことがきっかけとなり、名のあるジャズのライブハウスでプロシンガーとして活動するようになった。「当時の大学卒業者の初任給の何倍もお給料をもらうこともあった」(同)ため、その後もプロの道を進むと思われたが「歌えば歌うほど、もっとうまい人がたくさんいることに気づかされた。歌で生計を立てていくことは難しい」(同)と、断念した理由をしみじみと語る。

日本語に聞こえない!

短大を卒業し博水社に入社するころの田中社長。「手伝い程度なら簡単にできる」と思っていたが…

短大を卒業し博水社に入社するころの田中社長。「手伝い程度なら簡単にできる」と思っていたが…

田中社長は短大卒業後、酒の割り材ハイサワー発売直後の1980年に博水社に入社した。闘いの日々が幕を開けた瞬間だった。
 父親の専一会長(当時は社長)が働く姿を見てきた田中社長は「手伝い程度なら簡単にできる」とタカをくくっていた。しかし、この考えはもろくも崩れ去った。「工場の人たちが話している言葉が日本語に聞こえなかった。サイダーやジュースをつくっているだけなのに『充てん前殺菌温度は何度』や『pH管理』、『糖度ブリックス』などの言葉が飛び交い、ちんぷんかんぷんだった」(田中社長)と苦笑いを浮かべる。
 「これはまずい!」(同)と感じた田中社長は、すぐさま行動に出た。入社後まもなく、東京農業大学の食品醸造科に社会人入学した。同大学で働きながら、糖度や殺菌学、食品衛生法など約3年間学んだ。会社で身につけた知識を実践すると「調合が手伝えるようになり、おもしろさが分かるようになってきた。あの時わからないままにしていたら、後にさまざまな新商品をつくり出すことはできなかったかもしれない」(同)と振り返る。

一難去ってまた一難

会計書類の束を見て「入社当時は電話帳より厚い書類があるなんて知らなかった」と思い返して笑う田中社長

会計書類の束を見て「入社当時は電話帳より厚い書類があるなんて知らなかった」と思い返して笑う田中社長

製品をつくることができるようになり一息ついた田中社長に、もう一つの難題が降りかかってきた。
 ある日、専一会長(当時は社長)と顧問税理士が話をしているところに同席した時のことだった。貸借対照表や損益計算書などの会計上の事柄について話し合われていた。
 耳を傾けると「工場の人たちの言葉と同じように、会話が日本語に聞こえなかった。その時、電話帳より厚い書類がこの世にあることを知った」(田中社長)と、吹き出しそうにして笑う。
 専一会長の会計上の仕事に注視すればするほど「会計について理解できないと経営はできない。当たり前だが、会社はモノをつくっているだけではない」(同)と気づかされ、また「まずい!」と天を仰いだ。
 フットワークの軽い田中社長は工場での失敗を繰り返さないように、税理士予備校に通い始めた。週3回仕事が終わった後に講義を受けると、帰宅するのは終電近くだったという。約2年間法人税を中心に勉強した。すると、徐々に決算書が読めるようになってきた。
 東京農大や税理士学校での勉強を途中で投げ出さず貫徹できたのには「勉強と現場がセットになっていたから。身につけた知識を実践できる場があったことが大きかった」(同)と振り返る。

父の悲願を達成

工場や会計について知識を得てきた田中社長は、専一会長の悲願でもあったある商品の開発に着手した。1980年に酒の割り材であるハイサワーを開発した専一会長は、それより以前にビール原料やホップを使ったノンアルコールビールの製造を考えていた。だが、ホップのエッセンスを供給する製造元が倒産、同商品は日の目をみることがなかった。

親子二人三脚で完成させた「ハイサワーハイッピー ビアテイスト」「同 レモンビアテイスト」と「同 ゼロ ビアテイスト」(左から)

親子二人三脚で完成させた「ハイサワーハイッピー ビアテイスト」「同 レモンビアテイスト」と「同 ゼロ ビアテイスト」(左から)

偶然、金庫の中から開発を断念したビールテイスト商品のレシピを見つけた田中社長は「もう一回チャレンジしてみよう」と専一会長に言い寄った。現在では昔ほどホップなどの原料を入手することは難しくない。「今なら」と突き動かされた専一会長は開発を決断。02年から親子二人三脚での開発がスタートした。調合しては味を確かめる日々が延々と続いた。平日は仕事があるため土・日曜日を使った。
 開発開始から4年後の06年、最終候補の味が残った。「どれにしようか?」と専一会長に聞くと、返ってきた言葉は「あんたの口で決めなさい」の一言。「『お父さんが決めてよ!』と思ったが、“どの商品でも最終レシピの責任は社長にある”ことを教えたかったのかもしれない」(同)と述懐する。
 製造委託する工場から出来上がった最初の一本を田中社長が専一会長に持っていくと「冷蔵庫にいれておけよ。よく冷やしてから飲むぞ」と嬉しさを隠すように言った。一口飲むと「バランスがとれているな」と照れ隠しに言った。「嬉しそうだった」と語る田中社長の相好は崩れていた。
 親子で完成させたビールテイストの割り材は、「ハイサワー ハイッピーレモンビアテイスト」「同 ハイッピービアテイスト」の商品名で06年に発売された。気づけば“禅譲”の足音が近づいていた。

田中秀子 プロフィール(たなか・ひでこ)

1960年(昭35)生まれ。東京都生まれ。山脇学園短期大学英文科を卒業後、80年に株式会社博水社に入社。東京農業大学に社会人入学し食品醸造について学んだほか、税理士予備校に入学し経理業務を学んだ。08年に代表取締役社長就任。13年2月には、博水社初となるアルコール入りの缶チューハイ「ハイサワー缶」(350ミリリットル)を投入するなど、数々の商品を発売する。2児の母。

企業データ

株式会社博水社

東京都目黒区目黒本町6-2-2
03-3712-4163
事業概要:割り材(清涼飲料水)と酒類の製造販売業
資本金:2000万円
売上高:12億2500万円(2012年11月期)


掲載日:2013年11月28日


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