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闘いつづける経営者たち


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01.父の急逝に覚悟を決める

昭和電気鋳鋼は重さが4トンまでの大型鋳造建機部品を手がける

昭和電気鋳鋼は重さが4トンまでの大型鋳造建機部品を手がける

赤々と輝く溶解炉から溶け出てきた鋼は「湯」と呼ばれ、その温度は1600℃にもなる。昭和電気鋳鋼の工場は熱気で蒸す。現場の指揮をとるのが手塚加津子社長だ。ダンプトラックやホイールローダーなど世界の資源開発の現場で活躍する“働くクルマ”の構成品を大手建設機械メーカーなどに供給している。会社勤めの経験のない手塚社長は、2代目社長の父の急逝をきっかけに入社。子育てをしながら、清算も視野にあった会社を再建軌道に乗せつつある異色の経歴を持つ。

祖父の代から

手塚社長の朝は早い。東京都内の自宅を出ると新幹線に乗って高崎市の本社に毎朝出勤する。片道2時間半の道中は「会社の計画や課題を考える時間」(手塚社長)にあてている。入社から10年以上がたち、日課となった通勤風景だが「まさか、自分が経営者になるなんて夢にも思っていなかった」というのが本音。確かに重さが1個数千トンにもなる製品の現場に小柄で細みな手塚社長は一見、似つかわしくない。

ダンプトラックやホイールローダーなど働くクルマづくりを支える

ダンプトラックやホイールローダーなど働くクルマづくりを支える

会社の歴史は古い。1939(昭14)年5月にさかのぼる。初代社長の祖父は、西の西陣と並んで繊維産業が盛んな群馬県桐生市周辺で大型織機の販売を手がけていた。高崎市でモノづくりに最適な土地を見つけて鋳物をつくる「昭和電気製鋼」を設立したのが始まりだ。戦中は軍需好況の波に乗って生産量を増やした。海外にもいち早く目をつけ、1957年には米国の鋳鋼技術士を招いてより精度の高い最新技術の導入を目指した。大手企業のグループに属さない「独立系」企業として成長を続けた。今では鋳鋼・鋳造会社は日本に70数社しかない。その中で、生産量では全国で10本の指に入る。
 祖父の跡を受け継いだのが父であり2代目の天野和雄社長だった。父は都内の自宅と、当時上野にあった営業拠点の東京事務所を行き来することが多かった。手塚社長は「家では仕事の苦労話はほとんどしない温かい父」と笑顔で振り返る。
 転機が訪れたのは2001年、父の急逝だ。10年以上前から病と格闘していた父は病床でも「受注はどうか。工場の状況はどうだ」と指揮をとっていたという。

断ったアドバイス

手塚社長は母と2人で預金通帳の書き換えなど相続の相談に金融機関を訪れた。担当者は「とんでもない。預金どころか何倍もの負の財産(借り入れ)があります」。初めて聞く言葉に母と思わず顔を見合わせた。
 山谷の激しい業界。特に足元のITバブルなどで経営環境は悪化していたのだ。相談した弁護士は「事業環境は非常に悪い。まして素人が踏み込むことには反対」とアドバイスを送り、相続放棄による清算を勧めた。手塚社長は都内の大学を卒業後、母校である私立の中等科、高等科で数年間非常勤講師として働いた。ただ、会社勤めの経験はほとんどなく、結婚後は専業主婦として大手企業で働く夫と娘3人をそばで支えた。安定した生活があったと言える。
 それでも手塚社長は「祖父、父が苦労して築いて育てた会社に無責任なことはできない。そして、厳しいときも会社を支え続けてくれた社員とその家族がいる」と前を向いた。「私の中で選択肢はない。答えは1つ」。資産と負債を相続する腹は固まった。

手塚加津子 プロフィール(てづか・かづこ)

1955年東京都大田区生まれ。大学卒業後、母校の私立中等科・高等科で講師として教える。結婚後は専業主婦となり、3人の子どもの子育てに奔走。2001年父で2代目社長の天野和雄氏の死去をきっかけに、2004年総務部長として入社。2007年代表取締役社長に就任、現在に至る。

企業データ

昭和電気鋳鋼株式会社

群馬県高崎市倉賀野町3250
業種:製造業(建設機械や鉄道車両、エレベーター用の鋳鋼製品)
資本金:1億円


掲載日:2014年3月31日


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