本文とサイドメニューへジャンプするためのナビゲーションスキップです。

スタートアップガイド

J-Net21 中小企業ビジネス支援サイト

  • J-Net21とは
  • スタートアップガイド
中小機構
  • メルマガ登録
  • RSS一覧
  • お問い合わせ

HOME > 起業する > 創業者列伝II

創業者列伝II


シリーズ09:東成エレクトロビーム【上野 保】
時代の趨勢を独自の感覚でつかむ

第2回「人間愛」

上野 保社長

上野 保社長

ウェブサイトへ

2人の上司の教えと別れ

会社員時代の上野の軌跡を辿ってみると、ものづくりと独立自営に必要なありとあらゆる経験を積んでいることが分る。現場の機械作業から技術員、試作品を手配して現場に流す日程係と見積り係、それから資材と生産技術。子会社の役員および社長として新規事業の責任者も務め上げている。

「子会社の社長として、技術屋が手形を発行したりする機会は極めて少ないものです。事業計画と決算書を組んで親会社の役員会で発表するのですから、まさにインキュベーションそのものですよ」と、上野は自分を育ててくれた会社に感謝を惜しまない。

そんな上野が職業人として薫陶を受けた人物が2人いた。技術のトップだった生産技術部長と機械工場を統括していた役員だ。生産技術部長からは「技術には真理は1つしかない。だから何か技術に問題が起きても原因は1つしかない。そこのところをちゃんと見極めろ」と、厳しい教えを受けたという。もう1人の役員からは「仕事は人がするものだ。人の扱い、人の動かし方で業績というのは決まるんだ」と、社員にどう意欲をもたせるかという経営ノウハウの教示を受けている。

この2人の大先輩に部下として仕えていたある日、その1人から「君をいつまでも私のところに置いていたら、客観的に君の力を評価できなくなる」と、別の部署への配転を命じられる。新しい職場での上野には、「いつも2人の上司が自分のことを見てくれている」との思いが頭から離れなかった。「例え厳しい仕事や課題にぶつかっても、常に『君ならどう解決するんだ』と問われている気がして、相談にも行かず自己完結型で対処してきたのです」と、2人の恩人を懐かしむ。見えざる眼が常に自分に降り注いでいるという意識が、上野の仕事の励みにもなったのだ。

「お2人から受けた薫陶というのは、私にとって非常にラッキーだった」と述懐する。だが、2人の上司は会社が破綻した際、責任を取らされて退職を余儀なくされてしまう。上野にとっての大きな心の支えを失ってしまったのである。会社人間としての上野の人生が、心の中で音を立てて崩れていくのが上野にも分った。上野がスピンオフするに至った動機である。

不屈の魂を育て上げた子供の頃の過酷な生活体験

本社工場の概観(東京都西多摩郡)

本社工場の概観(東京都西多摩郡)

翻って、1939年(昭和14年)5月生まれの上野が子供の頃、食糧難に苦しんだ戦後の最も厳しい時期を体験してきたことは想像に難くない。そして、上野が育った生活環境が不屈の魂をもつ中小企業経営の実力者を世に送り出す遠因にもなっていることも事実なのである。

上野が生を受けたのは、新潟県西頸城郡大字歌外波村字歌(2006年3月に糸魚川市に大合併)といっても簡単に理解できる人は少ないはず。分かりやすく言えば、飛騨山脈が日本海に突き出た海岸縁(べり)に位置する。「安寿と厨子王」で知られる名勝の地で、古くから交通の難所として恐れられた親不知という地名のところである。

ただ、産業面では恵まれたところもあった。100戸ほどの小さな村だったとはいえ、カーバイトやセメントの原料となる石灰石の原石採掘場がある鉱山の村。この関係で父親は電気化学工業の電気技師としてサラリーマン生活を送っていた。しかし、生活が苦しいことに変わりはないし、まして村で大学に行く人はほとんどいなかったという。

上野は母親の深い愛情と理解を得て最終的に大学に進学することはできたものの、トップクラスの成績を残した小学校時代とは打って変わって、中学生になると一転して成績は振るわなくなる。原因は遊びと仕事だった。遊びといっても生活のかかった仕事がらみ。眼の前には広い海、山には山の幸。四季折々の自然の恵みが手の届くところにあった。

仕事は楽なものばかりではなかった。母親が現金収入を得るため働いていた仕事を手伝った。仕事の中身とは海岸の砂利や砂を貨車まで運んで出荷するのだ。母親にとってはたいへんな重労働だったし、中学生の上野のする力仕事でもなかったが、少しでも母親を手助けしたいとの愛情が上野を突き動かしたのである。

上野の仕事はそればかりではなかった。狭い石ころだらけの海岸で塩を作りに励んだこともある。小屋の中に釜を作って、運んできた海水を煮るのである。新潟と長野を結ぶ“塩の道”は上野の子供の頃にも存在した。上野が作った塩1升と長野で取れた米1升が物々交換されていたのである。

この塩作りは過酷を極めるものだった。冬の間に父親と山で木材を束ねて谷底へ落とす。それから春になると背負って運ぶのである。川下の川辺で木材を乾燥させ、夜を徹して塩作りを手伝ったこともある。木材用に切り込まれた鋸の歯で手に大怪我をしたこともある。長さ3cmにもなる痛々しい傷跡は、今でも上野の左手に残っている。このような試練を乗り越え、大学まで進学できたのも「教育を受けていない母親が、私に対していろいろな薫陶をしてくれたお陰だと思って、深く感謝しています」と上野は、母親への思いを語る。

勉強する暇もないほどの忙しさだったとはいえ、上野が今でも悔やむ「失われた2年間」が存在していた。(敬称略)


掲載日:2007年6月18日

前の記事次の記事

加工東京都製造業


このページの先頭へ