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創業者列伝II


シリーズ03:アルプスエンジニアリング【刀原 精】
お客様が使ってくれてこそモノづくり

第3回「モノづくり人生へのチャレンジ」

新連携シンポジウムにパネラーで参加した刀原(向かって左)

新連携シンポジウムにパネラーで参加した刀原(向かって左)

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31歳で独立

刀原は俗に言う脱サラ組ではない。企業家精神があったわけでもなく単純な動機で独立してしまったのだという。

1939年、栃木県宇都宮市近郊の田舎町の写真館で3男坊として生まれ、幼少の頃から家業の手伝いをして生計を助けてきた。父親が暗室に入る時には、必ずといっていいほど写真作成の手伝いをする親孝行な少年である。

この子供の頃の体験が現在、機械装置メーカーでありながらケミカル的分野であるマイクロブラストのフォト工程の世界に、ごく自然に入れた理由である。また、これが技術的な自信となり、後に独立して事業を始める精神的な支えにもなっている。

宇都宮の高校を卒業して茨城大学の工学部の精密工学科に入学。ここで当時、先端を走っていた機械工学と電気工学を合わせた自動制御を学んだ。しかし、教える側も新しい学問領域だけに手探り状態。刀原は「大学では雑工学を学んできました」と当時を振り返り苦笑する。

そんな刀原が大学を卒業すると、「将来は立派なサラリーマンになる」との素直な気持ちで憧れのリコーの東京研究所に入社。数年間は最新の自動連続コピーの設計開発などに明け暮れる。それでも余暇時間は十分にあり、研究所の図書室で本を読みあさる日々が続く。研究者の卵としては極めて恵まれた環境だった。

こんな研究と読書浸けの生活が続く一方で、コピー機業界は技術革新の時代に突入していた。ジアゾ式青焼きコピーと電子コピーの端境期の最中にあり、会社は未曾有の経営危機に瀕した。有能な技術者にも転職する人たちが目立ち始めた。リコーの名物社長としてマスコミに登場することも多かった市村清の時代である。

そんな時、浜松の会社に転職した先輩から声がかかる。はるばる浜松にやってきたヤマハ(当時は日本楽器製造)であった。入社した翌日から毎日、深夜まで管楽器を作る製造設備の設計を行い、開発した専用機の中には40年以上立った今でも稼働している現役の機械が数多く残っているという。

年齢も30歳になると、大学卒業者は管理職というラインの道が開けてくる。一方で技術職で生きる道が閉ざされる。

「現場の技術者として仕事をしたい」

自分の将来に危機感を抱いた刀原はやむなく退職を決意。しかし、辞表を出してみたものの、会社から強く慰留された。仕事を途中で投げ出すこともできず、辞表提出後約1年間の在籍を余儀なくされてしまった。

新しい門出も不安がいっぱい

会社の同僚とともに所持金を全部吐き出して会社を作ってはみたが、不安の連続だった。独立はしたが、新しいことをするには若く経験がないものの悲しさで、なかなか軌道に乗らない。

そのさ中「この仕事を手伝ってくれないか。そうすれば君の会社の経費も助かるよ」と、伯父の紹介で知り合った会社社長から誘いを受ける。渡りに船とばかりに、せっかく作った会社を同僚に任せて、その会社の技術部門の責任者になってしまったのである。

それから5年。技術部門を2人から15人までにした時、刀原にようやく自信がつきはじめる。この中小企業で培った会社の起こし方が、アルプスエンジニアリングの経営の基礎になった。「多分、大企業からそのまま独立していたら、大変な思いをしていたのではないでしょうか」と刀原は述懐する。

そして、いよいよ刀原の一人ぼっちの旅が始まる。

刀原はその会社の幹部の時代、人間関係の難しさを味わう。「今度こそは本当に自分だけで会社を設立するしかない」と、肝に銘じたのである。

「ここまでくれば死ぬことはない。自分ひとりぐらいは何とかなるだろう」と開き直り、先に投資した会社の株は社長に引き取ってもらい、そこで得た資金を全額、新会社に投資した。

今ひとつ、刀原には若いながらも大きな資産があった。深い信頼関係で結ばれた人脈である。刀原の技術者としての能力と固い信念に共感した人たちが支援の手を差し伸べる。平安コーポレーションの社長夫妻と貿易会社を経営していた伯父(今は故人)など、沢山の人たちが刀原の船出を祝った。

これが奇しくも一人っ子の長男が誕生した1975年11月、資本金400万円のアルプスエンジニアリングがスタートを切った時だった。

最初の1年間は文字通りの一人旅。2年目には3人になり、何とか自分らしくなってきたが、設計はしても作る工場が無い、景気が悪いときは喜んで仕事を引き受けてくれたのに、景気が回復すると見向きもされない。仕方なく自前で作る羽目になる。

昼は設計、夜は製作依頼先の工場を借りて組み立てる日が続く。3年目にはやっと自分たちの借り工場を持つことが出来た。それから4年、設立から7年目にようやく悲願の自社工場を設けたのである。(敬称略)


掲載日:2006年12月25日

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