鍛冶屋から自転車屋に商売替えした父を手伝い、貧しさからの脱出をも考えて、本田は自ら東京の自動車修理工場「アート商会」に就職を希望する。この選択はのちの“ホンダ”を考える場合、きわめて重大であった。彼はのちに、「アート商会」の主人・榊原侑三を生涯の恩人に数えている。
柳行李一つを担いで、父に連れられ、自動車修理工場に丁稚小僧となって住み込んだ本田は、学校教育らしいものを受けることなく、まったく別の世界=実践によって技術を習得する世界へ、半年の子守を経て入っていく。
――徒弟制度の厳格な時代であった。
右も左もわからない小僧にとっては、きわめて冷酷な世界であったに違いない。しかし、本田の回想譚にはそうした部分が皆目、見当らない。ただただ、目前の修理実務に立ち向かった。
当時の「アート商会」には、欧米先進国の輸入自動車が大小さまざまのメーカーから、多種多様の車種まで、次から次へともちこまれた。これを一つ一つ修理する現場・現物・現実の中で、本田は好きな機械いじりの世界から、より高度な技術を自得する世界へ進んでいく。
ただし、「アート商会」に6年つとめた彼は、その間、より一層の学問――たとえば基礎となる分野――をつもうとは考えず、手先の器用さと己れの経験則、そこから生まれた発想に支えられて、日々の仕事にどっぷりとつかり、それを楽しみ、仕事上、あるいは束の間の余暇には連日、オートバイを乗りまわしておもしろがった。
ときに、競走用自動車(レーサー)を、払い下げの外車をつかって改造し、製造。オートレースにライディングメカニックとして出場し、自らが整備したレーサーが優勝したこともあった。
加えて、国民の義務であった徴兵検査では、色盲と誤診されたとかで、甲種合格を免がれ、軍隊生活をおくることもなく、好きな自動車修理――次々と押し寄せてくる無理難題の修理に、我を忘れて熱中した。その甲斐あって、22歳で“のれんわけ”をしてもらい、「アート商会浜松支店」の看板を掲げて、経営者となった。
当初は、
「あんな若僧に何ができるか」
と同業他社にいわれていたが、身につけた東京仕込みの技術は本ものである。
田舎の修理工に直せなくても、本田のところに持ち込まれれば、見事にポンコツ車はよみがえった。本田の名は口こみで知られていき、気がつけば毎月1000円以上ももうかる店になり、工員もいつしか50人ほどにふえた。
(この項つづく)
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