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〜創業者列伝〜傑物の遺伝子
トヨタ自動車 創業者・豊田喜一郎(2)
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
■ 悪戦苦闘の日々
 喜一郎の車づくりへのこだわりは、欧米先進国の自動車を、単に模倣するのではなく、あくまでも日本の国状にあったものを、部品にいたるまで、できるかぎり国産で賄おうとすることにも明らかであった。
 と同時に、一般大衆の人々に乗ってもらうことを、当初から考えていた点が、他の自動車会社とは際立って相異していた。
 理想は高い。が現実=日本の産業力はとても一流と呼べるものではなかった。
そうしたなかで、喜一郎は若い技術スタッフを自ら採用し、最新の自動車知識を習得するところから、はじめなければならなかった。

   「――徹夜の2日や3日はたえられるか」

 今日の名門“トヨタ”のスタート時、求められた人材の条件は気力と体力に尽きた。喜一郎は机上の空論を嫌うというより、むしろ憎むタイプで、理屈を唱えるより、自らの手で機械に取り組み、汗と油にまみれながら、実践の中で答えを求めることを欲した。
 工場で部下とかわす言葉にも、そのことは明らかであった。

   「手が油まみれになっているか」

部下の作業をみていて飛び出す言葉も、

   「言った通りにやれ、それでできなくても文句はいわぬ」

   「できないという前に、まずやってみろ」


であった。
じつはこれらのセリフは、ことごとく佐吉の発したものを受け継いでのものであった。

 国産自動車工業の確立を支援する立法が、成立目前となった昭和10年、喜一郎は将来、自動車製造許可会社の選定に対処するためにも、トラックの製造・販売の実績を急ぎ作る必要を痛感した。

   「年内に、トラック販売を始めたい」

 彼の情勢判断は、A型エンジンを搭載した試作車の完成にようやくたどりつけた“トヨタ”に対して、8月までにトラックを完成することを厳命させた。破天荒といってよい。しかも喜一郎は、ボディーデザインに国産車らしい工夫を凝らせ、ともいう。
 すでに自動車開発および製造準備のために使った資金は、500万円を超えていた。さらに300万円の資金が必要となった豊田自動織機やその関連会社は、この「カネを食う虫」に反発の声をあげたが、喜一郎は押し切って増資を実現している。
 こうして、綱渡りのような強引さでG1トラックの発表会は行なわれた。入場者数は2日間で延べ850名を記録している。

 G1トラックは3386cc、65馬力。最大積載量1・5tの性能をもっていた。
オイルブレーキや全浮動式後車軸などの新機構が工夫され、積荷台も小さいわりには沢山積めるよう配慮され、フレームも頑丈にできていた。販売価格は、完成車で3200円。
 先発のフォード、シボレーに比べて200円安かった。無論、この価格は原価を切って赤字であったが、ヘンリー=フォードの著作に学んだ喜一郎は、俗にいう、“損して得とれ”の価格政策を採用、その年18台つくって、14台売れる結果に結びつけた。

 だが、無理を重ねた歪みは、当然のごとくに生まれている。限られた時間の中で誕生したG1トラックは、できばえとして満足のいくものとはいえなかった。
とりわけ、部品の欠陥が目についた。形は同じなのだが材料が悪く、溶接一つをとっても仕方の違いなどがあり、全体としてわが国の工業技術が遅れていたことが、主因となって、“トヨタ”にハネ返ったといえそうだ。
 そのため喜一郎は自社の車を売るとき、国産車に理解のある者、もしくは“トヨタ”と何らかの縁故のある者に売ることを、販売方針にかかげた。なぜか。もし、車が故障しても、ある程度は辛抱してくれるだろう、というのだ。その一方で、

   「いくら金がかかってもよいから、かならず故障はサービスでカバーせよ」

とも厳命した。
 スタッフは、ユーザーが運転中に故障が起きると、その現場まで駆けつけた。販売店のサービスカーも急行している。とにかく応急手当をして、ユーザーの不興を買わないように、と必死のアフターケアをおこなった。1カ月15〜16日を徹夜することも、当時のエンジニアには決してめずらしいことではなかったようだ。

 ちなみに、トヨタマーク=丸の中に「トヨタ」をあしらったものが登場するのは、昭和11年10月以降。それまでの「国産トヨダ号」は濁音のない“トヨタ”へと変わった。また、クレーム処理にあたる一方で、喜一郎の弾き出した生産目的にむかって、必死の奮闘を行なっていた。
 彼は綿密な原価計算のうえにたって、具体的な台数を示したが、現場では「月産500台」が合言葉になった。 昭和12年12月、トヨタ自動車の生産が、ついに目標の月間500台に達する。(この項つづく)

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