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〜創業者列伝〜傑物の遺伝子
本田技研工業
創業者・本田宗一郎と藤沢武夫(9)
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
■ 再生へ

 私(本田)はすぐかねの取れるいいものを作ることに専念し、専務は早く代金を回収できる方法を考えた。会社一丸となってこの不況を乗り切ろうと努力したが、その努力が理論的にもっと資金を早く回転する方法とか、時間を大事にするくせとなって現われた。本田技研の基礎はこのときに固まったといってさしつかえない。(中略)

  こうして新機械購入によって成長を試みた28、9年ごろの藤澤専務の苦労はひどいものだった。私は技術上の仕事をしているのであまりこたえなかったようなものの、彼はいまだに当時の苦しさを述懐する。彼の話によると、それはちょうど竹のふしのようなものである。竹は温暖なところではふしとふしの間がのんびりと伸びてしまうので、強風や雪にあうと折れやすい。しかし風雪に耐えうる竹はふしとふしとの間がせまく、ガッシリと育って強くたくましい。28、9年の苦しさというものは、非常に大きなふし時期であったというのであり、私もまさにそのとおりだと思う。
(本田宗一郎『私の履歴書』)

一方で藤沢は、“ホンダ”の危機説を払拭すべく、国際レースに参戦するという、明るい課題も用意し、生来、明朗な本田にそのことをぶちあげさせた。この効果も見逃せない。
 先進国への機械買い付けにまわった本田は、昭和29年6月、英国のマン島に行き、TTレース(ツーリスト・トロフィーレース)を観戦、この国際レースに“ホンダ”も参加することを決意した。
 このあたり、あいかわらず本田の頭の中には技術向上のことしかなかったようだ。TTレースに参加して優秀な成績をとり、世界のオートバイ市場をイタリア・ドイツなどから奪い取ろうという、彼独特の技術一辺倒な、藤沢からみれば無邪気な夢が、帰国後、大いに語られることになる。

とはいっても、本田も創業経営者であった。

一方でもしも、の場合の腹は括っていたようだ。
欧米視察へ出発するとき、藤沢に、

   「いなくても大丈夫か?」

と念を押し、

   「大丈夫です。行ってらっしゃい」

と藤沢からいわれて、大きくうなずいて出発したものの、帰国して空港に出迎えた藤沢をみるや、

   「どうなった?」

と問うている。

   「もう大丈夫です。ホンダは絶対つぶさないから安心してくれ」

そう藤沢が答えると、本田は人目もはばからず、涙をこぼしたという。

 本田に同行した人の挿話が、『「長」と「副」の研究』(西田通弘著)に紹介されている。このくだりの、30年後の後日談だという。

「旅先の英国のホテルで、朝食の席で本田さんを待っていると、『オレ、昨夜、ホンダがつぶれる夢を見たよ』といいながら姿を見せた」

と、旅行中の思い出をもらしたのである。
その懐旧談は、やがて藤沢さんの耳に入った。すると藤沢さんは、

   「えー、それは、初めて聞いたよ。そうだったのか……」

と、30年目にして、初めて旅先の本田さんの心中の程を知り、しばらくの間絶句したという。外遊の前のその後も、二人はくどくどと愚痴を言い合うことはなかったのだ。

   「いなくて大丈夫か?」

   「もう大丈夫……」

 これが、外遊の始まりと終わりだった。
 ただ、公開される本田のエピソードはどこまでも明るかった。

本田イラスト5
 このとき私は英独仏伊など、オートバイ先進国を歴訪して日本になかったレース用のリム、タイヤ、キャブレターなどの部品をごっそり買って持ち帰った。(中略)

 さあ帰国という段になって、とうとうローマの空港で問題になってしまった。
 飛行機は荷物が30キログラムをこえると1キログラムにつきいくらと高い割り増し金をとられると聞いていたし、手持ちのドルは部品購入にほとんど使ってしまった。
 そこでホテルで苦心して30キログラムに荷造りし、リムやタイヤなどは自分で背負い、重い金物などはフランス航空でくれたカバンにつめて空港をパスしようとした。

 ところが空港では、その手持ちのカバンも計量するという。これを合わせると40キログラムぐらいになってしまう。
電報できょう帰国と打ったあとは一文も持っていない。これは困ったことになったと非常に弱った。

「来るときはバッグははからなかったのに、どうして帰りははかるのか」と抗議しても、検査員はトータル・ウエートだからといってがんとして聞かない。(中略)

 ここで飛行機に行ってしまわれてはたいへんなことになる。えらいことになってしまった、なんとかならないかと、考えに考えたすえ、離陸直前の飛行機の前で超過したカバンを開きカラッポにしてしまった。そして中にあるオーバーやら何やら身にまとえるものはなんでもまとい「さあ、これならどうだ」とやった。これには検査員もビックリした。とうとう「それならいい」と言った。
 「それならいいとはなんだ。結局トータル・ウエートは同じことじゃないか」とおこってみたがはじまらない。七月二十日のローマの熱暑の中で、着ぶくれにふくれ上がった私はフラフラになった。そしてこんどはまた荷物をもとのカバンに詰めもどした。ホテルで一晩がかりでギッシリつめたものがそうたやすくはいるはずがない。暑いし、気がせく。あれほど困ったことはない。(同上)

藤沢が、興味深いことを述懐していた。

 「社長には、むしろ欠点が必要なのです。欠点があるから魅力がある。つきあっていて、自分のほうが勝ちだと思ったとき、相手に親近感を持つ。理づめのものではだめなんですね。あの人にはそれがあります」

もっとも、ひと度、工場に入れば本田は“現場の鬼”となった。

 外国から機械を輸入する場合、それが日本の社会なり工場なりに到着してから、技術屋がインストラクション・ブック(説明書)と首っ引きで扱い方などの技術をおぼえるのが普通である。
だが、そんなことをしていたのでは借金で買った機械の償却がおそくなる。そこで、機械据え付け工場の地盤を前もって整備し、機械がはいったその日からスイッチを入れ機械を動かす状態にしておくよう努力した。これまで扱ったこともない精密機械となるととおりいっぺんの予備知識では動かない。それをガムシャラにマスターさせた結果は、その後の生産技術のレベル・アップに非常に役立った。
(『私の履歴書』)

 こうして“ホンダ”の最大の危機を乗り切った本田と藤沢は、その後も幾度か社業の興廃を問われかねない局面をむかえたが、見事なコンビネーションでそれらをクリアしていった。
(この項つづく)

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