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〜創業者列伝〜傑物の遺伝子
本田技研工業
創業者・本田宗一郎と藤沢武夫(6)
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
■ 運命の出会い
 このとき本田は、前年に設立した「本田技研工業」の存亡にかかわる、代金未収問題を抱えていた。技術一辺倒の彼は、将来を見据えての販売戦略を考えることが苦手であった。

私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤澤専務”といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いは、ドリーム号の完成した昭和24年(1949)8月であった。

 当時モーターバイクが好評で、作るそばからどんどん売れる。自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じていた私はもうけの方をつい二の次にしていた。そしていつのまにか月産千台もの企業に拡大してしまっていたが、そうなると売り先は小さな自転車屋とか終戦の混乱に乗じてかねもうけをたくらむヤミ屋、復員した連中といったきわめて不安定なおとくいさんである。(中略)
 とにかくきのうは店を開いていたと思って売り掛け金を回収に行くと、次の日には店は閉まっていて、本人はどこへ夜逃げしたのか、だれも知らないといったぐあい、品物は出ても代金がほとんどはいらない。

 これではこっちが破産してしまう。弱ったなと頭をかかえているところへ(中略)竹島弘君が藤澤君を紹介してくれた。(中略)
(彼は)私がつぎつぎ発明をし新製品を出すには出すが、かねが取れないで困っていることをよく知っていた。そこで「おかねのことなら藤澤君にまかせておけばなんとかするだろう。そうすればお前の苦労は減って好きな技術の道を歩けるようになろう」というので二人を会わせてくれたわけである。
  (本田宗一郎著『私の履歴書』)

  本田の藤沢に持った第一印象はどうであったのだろうか。

  藤澤という人間に初めて会ってみて私はこれはすばらしいと思った。戦時中バイト(削り機に用いる刃物)を作っていたとはいいながら機械についてはズブのしろうと同様だが、こと販売に関してはすばらしい腕の持ち主だ。つまり私の持っていないものを持っている。私は一回会っただけで提携を堅く約した。 (同上)

では、一方の藤沢はどうであったのだろうか、後年、彼は次のように語っていた。

本田さんは、当時、少なくとも名古屋、浜松あたりでは、業界では名を知らない人はいなかったようである。技術者としても、人間としてもすばらしい男なのに、誰もあの人をつかまえなかった。ということは、あの人に心底惚れる人がいなかったからでしょう。
 私は戦前から、誰かをとっつかまえて、いっしょに組んで、自分の思い通りの人生をやってみたいと思っていた。大きな夢を持っている人の、その夢を実現する橋がつくれればいい。自分の一生を賭けて、持っていた夢をその人といっしょに実現したいという気持ちだった。
(もと本田技研工業副社長・西田通弘著『「長」と「副」の研究』より)

また、右の書は次のような言葉も伝えられていた。

「これから一緒にやるけれども、別れるときは損はしないよ。ただし、その損というのは、金ということではない。何が得られるかわからないけれど、何か得られるものを持って、お別れするよ。だから、得るものを与えてほしいとも思うし、また得るものを自分でつくりたいと思う」

対する本田は、

  「結構だね。金のことは任せる。交通手段というものは形はどう変わろうと、永久になくならないものだ。けれども、何をつくり出すかについては、一切掣肘を受けたくない。俺は技術屋なんだから。これは箪笥だの呉服を売るのとは違って、人間の生命に関することなんだから、その点に一番気をつけなければならないと自分は考える」

と答えた。それだけで、決まった。

 当時、“ホンダ”の主力は、D型エンジン(2サイクル・98 CC)を搭載したドリーム号であったが、入社して早々の藤沢は排気音がソフトでエンジンの始動性にすぐれ、燃料効率のいい4サイクル・エンジンを作ってくれ、とさっそく経営上の要望を突きつけた。
 だが、本田はその頃の主流であったサイド・バルブ方式(側弁式)では、エンジンの構造が複雑で車体が重いという欠点をあげ、

   「当面は2サイクル・エンジンをやる」

 とこれまた自説を主張。

 藤沢は、本田が納得のいかない技術に手を染めたくないのだ、と判断し、それを“掣肘”することなく、待ちに徹した。

 本田はやがて、愛用のMGのエンジンがオーバーヘッド・バルブ方式(頭上弁式)であることに目をつけ、これをオートバイに応用することを思いつく。

 昭和26年5月10日、ついに本田は藤沢に新型エンジンの設計図を披露した、後世に「CVCCエンジン」と匹敵する貢献を“ホンダ”にした、と称される「E型エンジン」(4サイクル・145CC)の誕生であった。藤沢は、一目で売れることを確信する。
 この設計図を仕上げたのは、昭和22年入社の河島喜好であった。ときに23歳(のちホンダの二代社長となる)。 “ホンダ”の総売上は、前年の8千300万円から3億3千万円へと一気に4倍に伸びた。
(この項つづく)

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