起業の先人に学ぶ(2018年版)

困難や苦労、失敗と成功…様々な体験を乗り越えて今に至る、起業以来の道のりを伺いました。

逆境の中、父から引き継いだ会社を、業界の革命と言われるまでに変えた経営者【石坂産業(株)】

埼玉は所沢の郊外に、同業者はもとより、海外25カ国以上から視察団を迎え入れている産業廃棄物工場がある。一時は住民の激しい反対運動にあったこの会社が、どうやって地域に愛される会社になったのか。そこには二代目社長の息の長い戦いがあった。

石坂産業株式会社 石坂 典子 氏
URL:https://ishizaka-group.co.jp/

目次

産業廃棄物の90%以上をリサイクル

―― まずは、貴社の展開されているビジネスの特徴を教えてください。

建設系の産業廃棄物処理を行っています。たとえば、家屋解体やリフォーム、ビルの建て直し、道路工事の際に出る廃材などを引き受けて処理する総合プラント会社です。

―― 産業廃棄物の90%以上をリサイクルされているとのことですが、どのようなものに変えていくのでしょうか?

半製品という状態が圧倒的に多いですね。木材であればチップの状態にして段ボールやパーティクルボード(木質ボード)の原料として出荷したり、廃プラスチックと混ぜ固形燃料にして製紙工場のボイラーやセメント工場の焼成炉の燃料として使用されます。あと、複合建材の中で混ざっている金属類は、鉄、真鍮、銅、アルミ等の単一金属として取り出し再生化しています。家の基礎のコンクリート類は破砕し再生砂利として利用しています。

―― リサイクル率はどのくらいでしょうか?

業界の定義だと、この減量化・リサイクル化率が最大98%になります。残りの2%は焼却、または埋め立て地に持って行って処分ということになります。

サロンの開業資金を貯めるために父の会社へ

―― ところで、石坂社長はもともと経営者になりたいという考えを持っていたのでしょうか?

学生時代、日本で流行し始めていたネイルサロンを、フリーネイリストとしてやっていきたいという考えが漠然とありました。今でこそ、ネイリストは専門の試験もできましたが、25年くらい前、ネイルサロンは日本にはほとんどなく、そのような状態の市場なら、先行して取り組めば独立してやっていけるかな、と思っていました。

―― その後、お父様の会社である石坂産業に入社されるのですが、そちらの経緯を教えて下さい。

当時はイベント系コンパニオンの仕事をしておりまして、各企業のプロモーションをしていました。そんな時、父から会社の手伝いをしないかと声を掛けられ、入社しました。その時はネイルサロンは諦めていなかったので、「サロン開業の資金調達のためにうちで働いたらどうか」と誘われたのです。

―― 仕事はなにを?

事務員でした。営業の補佐的な受付や電話応対をしていました。

地元のバッシングの嵐の中で社長に就任

―― その後、自ら「社長をさせてほしい」と申し出られたそうですが、その辺の経緯はどのようなものだったのでしょうか?

10年間、事務の仕事をして、営業部をまとめる役職に就いていたのですが、ネイルサロンをやれる資金の目途もついたので、実は退職を考えていました。そんな時(1999年)に、この地でダイオキシン問題が発生し、当社に疑いの目が向けられ、大きなバッシングを受けるようになりました。そこから2002年まで、地元では「石坂産業は出て行け!」という反対運動が起き、公害調停や裁判問題にまで発展していきました。辞めるタイミングを失った私がある日、父の事業ビジョンの話を聞いたことが社長になるきっかけになりました。

―― お父様の話はどんな話だったのでしょうか?

今から51年前の事ですが、父が土木工事業をスタートした時、東京オリンピック施設の解体の仕事をしていました。そこで生み出される多くの廃棄物の山を見て、「将来はリサイクル事業、資源を再生する仕事に取り組みたい」と思ったらしいのです。会社が大変なバッシングを受けている中で、父の夢を叶えるために、私に何か手伝えることがあるだろうかと考えました。

―― それで社長になりたいと?

うちには3人兄弟がいたのですが、当時この会社に勤めていたのは私だけでした。他の2人は結婚したり他所で働いていたので、この会社を継ぐとは思えず、「父の作った会社、父の想いを継げるのは私しかいない」と思っていました。社長をやらせてくれと言った時、私は30歳で、それほど深く考えず、勢いもあったと思います。ただ、私の申し出は父から却下されたのですが。

―― 最初は却下されたんですか?

はい、女性だからダメだと。この業界はいわゆる「男の世界」で、厳しい環境です。父はその中で女性の私がトップに立つのは難しいと思ったのでしょう。もう一つの理由は、父は将来、会社を長男に継がせたかったんです。しかし、会社を継ぎたいと言ったのは長男ではなく長女の私でした。父は悩んだ末に私を呼びつけて、こう言いました。「社長をやらせてやる。ただし、試用期間を1年設ける」と。要するに「自分に何ができるか1年間やってみろ」ということでした。

―― 「やりたいようにやってみろ」と言われたわけですが、会社の外はバッシングの嵐だったわけですよね。

そうです。大変な反対運動が起きていた時にもかかわらず、周囲の方やお客様に当社の考えを伝えていく方法が全くありませんでした。例えば会社案内もまともに無い状態ですし、ホームページもありません。会社を知ってもらう手段は口コミ程度しかありません。「これからは当社を可視化して、外に伝える手段が必要だ」と思いました。父が技術者・職人として、これまで技術を高めてくれていましたので、私はそれをしっかりと伝え、理解をしてもらえるような広報の役割を担おうと思ったんですね。

―― そして動き始めたわけですね。

父は、バッシングの最中にあっても「この会社を続けたい」と言ったんです。それを聞いて私は「会社を続ける。永続する会社を作る」とはどういうことか、そのために何をすべきかと考えました。結論としては「地域から必要とされ、愛される会社になる」という考えにたどり着いたんです。当時、イメージの悪かった「産廃屋」から脱しようと思ったんですね。

会社のイメージを変える

―― 一番最初に手を付けたことはなんでしょうか。

建物でした。工場を全天候型のプラントにすることでした。これまで当社の社員は屋外で、雪の日も台風の日もカッパを着てゴミの選別をしていたのです。そのため、まずは社員の身体を守ろうという理由から全天候型のプラントを考えました。また、屋外で破砕処理の作業をしていると、廃棄物の埃などが周囲に飛散して住民の苦情につながっていました。それを防ぐという目的もありました。しっかりとした建物を建て、工場をクローズド型にしたいと父に説明しました。父は、最初は「建物で飯が食えるか」と反対しました。私は諦めず、「働く人のことや地域の負担を改善することで当社のイメージを変えたい」と父を説得しました。その後、工場の建築許可を取るのに1年かかりました。許認可を取り1年の社長試行期間が終わり、父は引き続き私を社長にさせてくれました。

―― 今では、地域に認められる会社になられたわけですが、他にはどんな活動をされたのでしょうか。

国際規格のISOを取得したのですが、その取得を機に、工場周辺のボランティア清掃を始めました。これは15年間、今も続けています。ボランティア清掃では拾っても拾っても毎日ゴミが捨てられるんです(笑)。なんでこんなにゴミが捨てられるんだろう?と考えていたら、ゴミが捨てられない環境づくりが大事だというところに行き着きました。工場の周りは雑木林が多いので、ゴミの不法投棄も多かったのです。酷い人はダンプカー1台分を捨てて行くんですよ。そこで、森そのものをゴミの捨てられない状態に管理しようと考えました。

―― 森を管理、ですか?

そうです。ただ、地域の人からは「石坂産業は工場を拡張するのか」という詮索も入ったため、第三者(日本生態系協会)に評価される仕組みを入れようと考え、「生物多様性の森づくり」にチャレンジすることにしました。1年半かけて植栽など詳細な調査を経て取り組み始め、5年前にようやくJHEP認証(ハビタット評価認証制度)の最高ランクであるAAA(トリプルエー)を取得することができました。JHEP認証とは「生きもののくらす環境に着目して森林環境を評価する手法」です。評価が高ければ、より多くの生物がすみやすい森であるという意味になります。この最高ランクの取得を踏まえ「当社は30年、50年先を見据えて森の生体管理をしていく」というコミットメントをしたところ、当社を見る周囲の目も変わってきたのです。

―― 素晴らしい取り組みですね。

「綺麗な公園になったら使わせてほしい」とか「桜が咲いたら花見をさせてくれるの?」などという意見も寄せられたため、一般公開にも踏み切りました。それが徐々に口コミで広がっていって、今のかたちになりました。私が社長になって5年目くらいの頃、ボランティア清掃を行っていた社員が、地域の人から「いつもありがとう」と声をかけられたそうです。私が社長になってから初めての誉め言葉だったんですよ(笑)。嬉しかったですね。「ここから出ていけ」とばかり言われ続けていましたので、そのように見てくれている人がいるのだと、本当に嬉しかったのを覚えています。

―― 周囲の方々の理解を得るために、長い取り組みがあったのですね。

そうですね。「5年続けて理解されたのなら、もっと続ければもっと理解してもらえるのでは」と思いながら続けてきて、15年が経ちました。

自分のやりたいようにやる

―― 会社は大きく変わり、周囲の評価も変わってきました。社内はその変化をどう受け止めていたのでしょうか?

実は、社員の理解を得ることが本当に大変でしたし、難しかったのです。社長が女だからということで、男性社員からの反発はよくありました。変化について行けない社員が沢山辞めた時は本当にキツイなと思いました。

―― それをどう乗り越えたのですか。

父に相談に行きました。父は「経営者の役割は全ての最終責任を取ることだが、同時に自分でやりたいことをやれる醍醐味もある」と言いました。「地域に愛される会社にすると自分で決めたのに、反対されたり理解されないことで諦めてしまうレベルの話なのか?」という内容の話もされました。それを聞いて私は「やっていいんだ。続けていいんだ」と思いました。父の言葉は「最終的に会社を潰す責任が自分にあるのであれば、自分のやりたいようにやって後悔した方がよいだろう?」という話であり、「自分で本当にやりたいことを周りの声で見失うな」というアドバイスでした。自分のやるべきことに自信がつきました。へこたれないハートになったと思います。

エネルギー供給会社になりたい

―― 経営者のあるべき姿のお話は、これを読んでいる経営者が深く共感すると思いますね。ところで「社長が女性だから」という話がありましたが、女性経営者のメリット・デメリットなどはありますか。

女性だからと意識したことは正直あまりないのです。周りは皆、荒々しい男性ばかりなのですが、特別、女性らしくというこだわりはありません。ただ、周りから「女性らしい経営ですね」と言われることは多くありますが。

―― 男女など関係ない。

私は、経営者は性別の違いは関係ないと思っているので、女性らしくあることを気にする必要性も、弱さを主張する必要性もないと思っています。ただ、棲み分けは必要です。あるとき、男性社員が「社長は重機にも乗れないし、溶接もできないくせに」と言ってきたのです。経営者でもできないことは当然あるわけで、自分の足りない部分をしっかりやってくれる人をいかに身の回りに置くか、ということはとても重要だと思います。もし女性経営者で、自分に足りないと思っているものがあるのなら、男女問わずその部分ができる人を身近に置けばよいのです。

―― 石坂社長が今、経営において一番大切にしていらっしゃることは何ですか?

働く人たちのモチベーションやポジショニングを凄く気にしています。最大の活躍の場をどう作るかということです。社員も増え、以前の3倍近くになりました。そういう環境の中、社員がそれぞれのポジションで100%能力を発揮してもらう環境をどう作っていくかというところが、今は一番の関心事ですね。

―― 石坂産業の未来ビジョンを教えて下さい。

当社は将来、エネルギー供給会社になりたいと思っています。大きな話ですが、地上にある資源の再生を担い、それがエネルギーとして使われる会社として生き残れたら面白いと思っています。そして、ここで働く人たちが他の人に元気を与えていくという意味でのエネルギー供給もできる会社になっていけたらと思っています。

―― 海外展開はお考えですか?

日本の人口はこれから減少していきますが、今、私たちの業界では、JICA(国際協力機構)さんの支援で、100社を超える事業者が海外に施設を作っています。私は、海外に工場を作るだけではなく、海外で事業を運営できる人材を育てたいと思っています。そのようなソフト面での供給ができないかと考えています。弊社にはすでに海外25か国以上の人達が見学に来てくれていますが、彼らの国では、まだ一般廃棄物(生活ゴミ)の処理技術に取り組んでいる段階です。次のフェイズとして国全体が経済的に豊かになれば建設系の廃棄物が生まれてきますので、その時に当社の「98%の再生技術」が必要になってくると思っています。私達のこの工場が廃棄物処理工場と環境教育活動を兼ねた1つのビジネスモデルみたいな形になればいいと思っています。

―― 最後に、読者の経営者の方々への応援メッセージをお願いします。

独創性を持ち続けること、考え続けることを経営者は止めてはいけないのだと思います。諦めてしまったり、満足してしまったりすると、そこで成長は止まり衰退するしかなく、働く人たちのビジョンも生まれません。できる・できないではなく、夢を描き持ち続けていけば、働く人たちもそれを目指していきます。他に無いものを見つけ続け、諦めないことが、社長の第一条件ではないかと、私は思っています。