明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

森下博 - 広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男

目次

危機に際してみせた行動力

 第15銀行は宮内庁の御用達をつとめる銀行である。森下にすれば、その第15銀行が倒産に追い込まれるなど、想像のうちになかったに違いない。銀行との取引が中断されれば資金繰りに窮する。取引先に対する支払いも、従業員の賃金も払えない。森下には創業以来のピンチだった。しかし、広島から徒手空拳で出てきた男は、窮してなお屈せぬ精神の持ち主だった。第15銀行の閉鎖を耳にすると、森下はすぐに対策を講じた。まずは冗費の削減だ。ついで積極策に打って出ること、新しく銀行取引を始めることの、3つの方針を決めたのである。まず北久太郎町にあった本社営業所を、玉堀町に移転せしめ、経費の削減を図った。偉いのは従業員を馘首しなかったことだ。しかし、経費はできるだけ切りつめた。従業員も森下の要請によく応えて協力した。家族主義のたまものだ。

 続いて森下は積極策に打って出た。赤小粒仁丹を新たに販売することを決め、これとあわせて大々的な宣伝攻勢に出たのであった。誰もが森下の行動に驚いた。いずこも身を縮めて嵐が去るのを待っていた。しかし、こういうときだから、森下は積極策を採ったのである。森下は強運な男で、この赤小粒仁丹があたった。さらに森下は海外事業でも積極策に打って出る。海外においても大宣伝を開始する。それがブーメランのごとく国内効果を呼んだ。森下は元来輸出による国益増進を理想とする男であり、それがため海外進出は彼の信念として、国内での売れ行き不振を、海外営業の稼ぎでカバーしたのである。これと平行して森下は銀行取引を開始するため奔走する。森下の危機対応を見て、その経営手腕を評価してのことであろう。第34銀行(後の三和銀行)と第12銀行が取引に応じ、こうして森下は昭和大恐慌を見事に乗り切るのであった。

現代の経営者が失った企業家精神

 森下博は他人の言葉によく耳を貸した、と先に書いた。そして「青年重役会議」を組織化して、社内からアイデアを募り、これを「金言広告」「昭和の常識広告」「電柱町名広告」などに活かし、森下仁丹の広告宣伝に努めた。森下が社員一同に強く要請したのはやはり一人ひとりが広告宣伝部員になる、その心構えだった。その結果、森下仁丹は製薬会社と呼ぶよりは、一大広告会社の体をなし得たのである。森下博は、それを少しも恥じることなく、それこそが社是でいう「社会貢献」であると胸を張った。それはひとつの哲学といっていい。しかし、森下は剛胆な人物でもあった。創業まもなく森下は、新商品におい袋「金鵄麝香」の宣伝広告のため、新聞の一面を買い取り、全面広告を出した。これは勇気のいる決断だ。そもそもが「金鵄麝香」なる商品が、売れるかどうかもはっきりしなかったのだから......。

 広告は真剣勝負であるというのは森下博の口癖であった。だから広告だけは、最初から最後まで、文字の一字一句まで、生涯を通じて、いかなる些細なことでも、他人に任せるようなことはしなかった。森下が類い希なアイデアマンであることも書いた。しかし、他と異なるのは素早くアイデアを実行に移す行動力があったことだ。昭和初期の金融大恐慌に際しても、森下は持ち前の行動力で、危機を乗り切った。森下は多くの明治人経営者のように財閥形成を望まなかった。もっぱら「1人1業」を本義として、ただ人びとに喜ばれることを願いつつ、商売に励んだ。森下は現在のサラリーマン経営者には望むべきもないベンチャー精神を持っていた。森下が逝くのは昭和18年3月のことである。私は18年に生まれた。城山三郎とは異なる視点から森下博伝を書いてみたいと思う。(完)

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