明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

森下博 - 広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男

目次

アイデアを「青年重役会議」で徴募

 この「広告益世」の理念が着実に実現されていった、その真骨頂とも言えるのが大正3年にスタートした「金言広告」である。金言とは「天は自ら助くる者を助く」「時を空費するは無情の奢侈なり」など古今東西の格言などである。これらを厳選した5000種類の金言を、新聞広告をはじめとして、まず電柱広告、看板、紙容器などあらゆる媒体に入れたのである。森下の「金言広告」は「新しい時代の広告として一世を風靡し、各方面から称賛を博し、学校などから多くの感謝状が寄せられた」と森下仁丹歴史博物館のホームページに誇らしげに書いている。勢いをつけ、本社に輸出部を新設し、海外に雄飛するのは明治40年のことだ。森下は決断を下すと実行も早かった。輸出部を新設すると、仁丹委託販売を中国全土の郵便代弁処、つまり日本で言う特定郵便局全国4000カ所に仁丹製品販売を委嘱して中国進出の第一歩を記すのであった。

 森下は聞き上手であった。この聞き上手が社内で組織化されたのが、後の「青年重役会議」である。いまでいうブレーンストーミングのことだが、若手社員を中心として社内外から人を集め、議論する場が「青年重役会議」というわけだ。社内の地位を問わず、有用と判断されれば、そのアイデアは商品化される。こうして新たな独創的な提案が次々と採用されて、その結果が新商品を生み出すという仕掛けだ。ときにはつまらぬ提案もあろうけれど、それをにこにこしながら森下は聞いているのである。同時に森下は、大衆が何を望んでいるか、その望みをかなえるには、どうすればよいかを常に考えていた。要するにマーケティングのことである。マスコミを活用し、そこで大々的な宣伝を行う必要を感じたのも、そうした考え方からだった。それは同時に、我が国のマスコミの勃興期とも重なり合う商品販売のひとつの手法として確立されたものでもある。

「八髭の大礼服」に込められた意味

 日本におけるマスメディアは、西南戦争を契機に爆破的な伸びを示し、戦争はニュースを求める大衆のなかへと浸透していく。明治初期、義務教育が行われるようになったことも国民の識字率を高め、新聞や雑誌などマスメディアの発展を促した。この動きを、森下はじっくりと観察し、森下仁丹の広告宣伝における独自性を確立するのであった。森下は創業にあたり「原料精選を生命として、優良商品の製造供給を進みて、さらに外貨の獲得を実現し、薫化益世を使命とする」と宣言したことにも、その考えは現れている。森下は明治末から大正初めにかけ、内服美容材「肉体美白玩」、梅毒新剤「減毒」、懐中薬「仁丹」など次々と新商品を発表している。広告をいつ打つのか、それは決まって建国記念日だった。広告効果が最も高いのが祝祭日であることを、森下は知っていたのである。新商品発表の日を見ると、なるほど昔紀元節といわれた建国記念日ばかりだ。

 モデルが誰であるか、明治の人びとの間で議論を呼んだ「八髭の大礼服」にも、森下は細かな計算をしていた。大礼服着用の姿は当時、国民の立身の未来像を示すものでもあった。当然ながら大礼服は宮中とのつながりを 暗示し、宮中次席を上がることは、立身出世のシンボルでもある。それを仁丹の商標にしたのは森下の非凡ならざるところだ。さらにいえば、森下の傑出していることは、この商標の研究を絶えず怠らなかったことだ。先の森下仁丹歴史博物館のホームページに、仁丹のシンボルマーク「八髭大礼服」が掲載されている。よくよく観察してみると、なるほど、時代とともに、それが変化しているのがわかる。宣伝広告は時代とともに、その要求は変転するものだ。森下は時代の持つ要求を鋭敏に把握していた。ちなみに、大礼服にJINTANのローマ字を入れるのは、大正5年のことである。なお、現在の大礼服には一切の文字は入っていない。(つづく)

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