明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

根津嘉一郎 - 鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ

目次

執念のビール30年戦争

 しかし、すべての事業が順調であったわけではない。苦戦を強いられた事業もある。例えば、ビール醸造の経営では、はかばかしく進捗しない状況を経験しなければならなかった。ことの起こりは明治39年、三井系のエビス麦酒の馬越恭平が他のビール会社の吸収合併を策したことから始まった。おりから嘉一郎は知人に頼まれ、丸三麦酒という小さなビール会社の社長を引き受けていた。丁稚からたたき上げ、三井物産で常務理事を歴任した馬越は自ら大日本麦酒を創設し、このとき社長の職にあった。その馬越をライバル視した嘉一郎は猛然と戦いを挑む。明治のベンチャーは戦闘的なのだ。両者は事業上の対立だけでなく、ついには感情的な対立に発展した。この争いは「家の競争となり、骨董品の競争となり、茶会の競争になった」と先の評伝作家は書いている。嘉一郎という男は、直線的で曲線的に動けぬのである。往事の経済人は嘉一郎のやり方に眉をひそめたものだ。

 幾人か調停に立ったようだが、ともあれ嘉一郎は一直線に進む。世に言う「ビール30年戦争」は、大正10年に至り、三ツ矢サイダーの帝国鉱泉とその姉妹会社である日本製缶が加富登麦酒(旧丸三)に合併を申し込み、これを嘉一郎が応じ、新たに日本麦酒鉱泉を発足させたことで白熱化する。同社は馬越の大日本麦酒との競争においてヨーロッパに学んだ製造法を改良し、景品付きの販売をやるなどいくらか優位に回った。その後、昭和8年に至って両社の合併話が持ち上がり、合併交渉のさなかに馬越恭平が逝く。馬越が死去したことで合併交渉に弾みがつき、ついに「ビール30年戦争」に終止符を打ち、ようやく合併がなった。「馬越も死んだからな......」と嘉一郎自身も経営から身を引く。やはり馬越恭平あっての「ビール30年戦争」であったのであろう。それにしても馬越との競争を、30年も続けたとは、やはり嘉一郎という人物の性格を抜きに語れぬ物語だ。

電力事業から撤退

 物語は昭和初期にさかのぼる。このころの嘉一郎は東上線を東武鉄道の傘下に収め、他方では大日本麦酒との血みどろのシェア争いを演じながら着実に地歩を固め、英国のパブリックスクールに範をとった7年制高等学校の武蔵高校(現在の武蔵大学)を創設し、さらに徳富蘇峰の「国民新聞」を買収して、文化事業に乗り出すなど、経済人としては絶頂期にあった。もはや甲州財閥の一角を占めるには、事業は大きくなりすぎ、嘉一郎自身も東武鉄道を拠点にした「根津財閥」の形成を意識し始めていたようだ。しかし、戦闘精神は相変わらず旺盛で、嘉一郎は「東電騒動」に巻き込まれる。騒動の発端は役員派遣だった。おりから東京電灯は資金繰り(社債発行)のため、銀行から役員を迎え入れることになり、その調整を嘉一郎が任されていた。東京電灯は三菱、三井、安田の寄り合い所帯で個人の出資者は嘉一郎ただ一人。打ち合わせの席上で若尾副社長が常務を一人推挙して欲しいと提案したことが財閥側の思惑を呼び、それが「東電騒動」の発端となった。

 敵方は三井系の藤原銀次郎。一癖も二癖もある男だ。愚直一直線の嘉一郎の失言を捉えて、株主に対する陳謝を迫った。嘉一郎が「財閥の雇われ役員が何を言う」と発言したのを問題にしたのだった。藤原は「発言を取り消せ!」と迫ったのである。たわいのないことだが、こうなると、嘉一郎も黙ってはいない。株主総会の席で嘉一郎は財閥系の役員を激しくやりこめ、ついには財閥系役員がいっせいに引き上げてしまった。その責任を取り嘉一郎は辞表を提出し、所有していた東電株を売却し、他方では東武鉄道が購入していた電力を、松永安左エ門の東京電力に切り替え、それでも気持ちがおさまらなかったとみえて、ことの顛末を「国民新聞」に発表する。理屈ではなく感情がもたらす反応だ。嘉一郎というのは、そういう性分の男なのだ。日本製缶にあって常務として嘉一郎のもとで働いた山本為三郎は「他人に言わせると、根津さんは手段をえらばないんだと誤解されることがある」と語っている。ともあれ、嘉一郎が貴族院に勅撰されるのは大正15年だ。(つづく)

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