明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

五島慶太 - 強盗と呼ばれた経済人

目次

経済界重鎮門野重九郎との対立

 すなわち、五島慶太は鉄道省を去り、武蔵電鉄に入社した大正9年に、武蔵電鉄が都心部との連結を行うため、渋谷-有楽町間の地下鉄計画を申請していた。しかし、東京市は申請を認めず、計画は宙に浮いた格好になっていた。その後、東京市自身が公営地下鉄を企図し、計画を進めていたが、資金難に直面し、これまた計画は宙に浮いていた。一方経済界を中心に都心部に地下鉄を建設する機運が盛り上がり、昭和9年3月、東京高速鉄道が創設された。牛塚と不可思議な関係を結ぶのは、この時期のことだ。五島が会社設立と同時に常務取締役に就任するのは、前述した通りだ。警視庁が二人の関係を怪しいとにらんだのは、こうした事情からだ。

 当時の社長は門野重九郎。門野は志摩鳥羽藩の出で、東京帝大工学部を出て、欧米に留学ののち、合名会社大倉組に入社し、ロンドン支店長や副頭取などを歴任し、日本商工会議所会頭の職にあった経済界の重鎮である。慶応3年の生まれだから、五島にすれば15年の先輩にあたる。その門野と五島は地下鉄路線の建設をめぐり対立する。五島が渋谷から虎ノ門を経て、新橋を結ぶ路線を主張したのに対し、門野は渋谷から虎ノ門を経由し東京駅に結ぶ路線を主張した。五島は浅草-渋谷を結ばなければ、首都圏の地下鉄は意味をなさないと考えたのだった。しかし、門野は猛然と反対した。

世間の評判を落とす中での弁明

 五島の計画が説得力に欠くのは、浅草-上野間を結ぶ地下鉄が別会社となっているからだ。これを吸収合併してしまえばすべて解決だ。五島は密かに地下鉄株を買い集める。彼の手元に45万株が集まった。地下鉄業界の重鎮・早川徳次に勝負を挑む。驚いたのは早川だ。欧米での勉学を通じ、早川は都市には「地下鉄が一番。地上では都市の発展を阻害する」という信念から、日本で初めて上野-浅草に地下鉄を通した男だ。しかし、資本主義は株所有の寡占が民主主義の原理だ。過半を握った人間が会社の支配権を持つというルールだ。五島は過半の株を握り、早川に退陣を迫った。そのルールには勝てない。五島慶太はついに早川徳次の追い出しに成功するのである。

 それで五島慶太は世間の評判を落とした。マスコミも叩いた。それでも他人の会社を乗っ取り、傲慢にも財界先輩の反対を押し切って、ついには渋谷-浅草間の相互乗り入れを実現した。五島も後ろめたさがあったのだろうか、自伝『事業を生かす人』の中で、合併や買収の意図を、以下のように書いている。すなわち、財界に覇をなそうと思えば、いろいろな会社を合併し、ボロ会社を引き受けて、それを再建する。そうやってよくすることによって成功するのであり、覇をなすのだ--と。

東条内閣の運輸逓信大臣に就任

 昭和19年、五島慶太は請われて東条内閣の運輸逓信大臣に就任する。 事業家としての五島は「強盗」と呼ばれようが、才覚を示した。しかし、政治家としての五島は、まるでだめだった。第一死体の東条内閣である。誰の目にも敗戦は明らかだった。天皇の側近たちが密かに和平に向け、動き出していた。そんな時勢での東条内閣であり、東条内閣の運輸逓信 大臣だ。巨大コンツェルンを築き上げた男には、名誉が欲しかったのであろう。実利を得れば、次が名誉――というのが世間の相場だ。現代の企業買収の英雄・孫正義も政府の審議会に名前を連ねるなど、実利の次に求めたのは名誉だ。しかし、五島慶太の運輸逓信大臣の在職期間は、わずか半年。その前年に五島は、不幸なことに息子進を戦火で失っている。

 終戦の詔勅を、五島慶太は東急本社で聞いた。戦争では大事なものを失った。息子進を失ったのは最大の痛手であった。見渡せば、東京は焼け野原だ。東京渋谷の高台に立てば皇居の方角までも見渡すことができた。しかし、五島は大東急コンツェルンの最高指揮官である。本社も鉄道も、戦災で被害を受けている。とりあえずは、電車をまともに動かし復旧を急ぐことだ。復員してくる社員の受け入れもある。茫然自失の日々がすぎると、五島は猛然と動き出した。終戦のその年、五島は63歳 になっていた。(つづく)

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