明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

五島慶太 - 強盗と呼ばれた経済人

目次

残された疑惑

 しかし、強引な商売は恨みを買う。昭和9年10月、東京市長選が行われた。立候補したのは、五島慶太の盟友牛塚虎太郎だ。その牛塚との間で贈収賄の嫌疑がかかり、警視庁に検挙されたのだった。牛塚は富山県の出身で、東京帝大を卒業後、内閣統計局長や岩手県知事などを歴任したあと、東京市長を務めた男だ。事件は一通の投書が警視庁に届いたときから始まった。いまでいう「内部告発」だが、投書には「目蒲電鉄が牛塚候補の選挙資金を出した」と事実関係を詳細に告発している。おかげで五島慶太は半年もの間留置所に放り込まれるはめになるのだ。

 よほど留置所暮らしが辛かったのか、彼は自伝で「まさに地獄の日々である」と語っている。それでもがんばりを見せた。後に唐沢俊樹が『五島慶太君を追想する』に「取り調べの検事が、あんな酷い男はいない。傲慢無礼で取調官の権威など全然認めないと話していた」――と、書いている。ちなみに、唐沢俊樹は同郷長野の人で、五島とは8歳違いで、東京帝大卒の内務官僚。五島とは同郷同窓の縁でもつき合いであったらしい。追悼集であり、郷里の先輩を悪く書くはずもなかろう。それはともかく、牛塚は東京市長として鉄道建設や宅地開発など、運輸省とともに関係業者に絶大な権限を握っていた。事業家と巨大な許認可の権限を握る政治家との関係はいまも昔も変わらぬものだ。

名門三越の乗っ取り工作

 日本経済新聞『私の履歴書』から、昭和はじめから昭和10年代にかけての役職を拾ってみると、実に多彩な事業展開を行っていたことがわかる。私財を投じ、東横学園を設立したのも、この時期。昭和9年東横百貨店開業、同11年玉川電鉄買収、東京横浜電鉄ならびに目蒲電鉄取締役会長就任、同年東京高速鉄道を創設し、常務に就任。同13年東横電鉄が玉川電鉄を合併。後の東映・東横映画を設立し、取締役社長に就任。同14年湘南電鉄、京浜電鉄、小田急、富士山麗電鉄などの取締役に就任。以後、上記の会社を東急傘下におさめるという具合だ。それらのいずれもが強引な手法による買収合併だ。そのために世間の人びとは「五島」を「強盗」に置き換えて「強盗慶太」と呼んだものだった。

 しかし、第一生命の矢野恒太や東宝の渋沢秀雄あるいは阪急の小林一三 のように都心部の一等地に拠点を持つのは、五島慶太のかねての夢だった。渋谷に東横百貨店を開業したのは、その足がかりにするためだった。狙いを定めたのが三越と地下鉄の乗っ取りだ。当時の東横はいまのスーパーみたいなもので、高級品はみな白木屋や三越だ。まず三越の株式を買い占め、三越との合併を図る――というのが、五島が立てた作戦だ。手持ちの株に加えて人手を通じ取得した株を懐に納め、、昭和13年の春、三越乗っ取りに動き出したのである。当時の三越の発行株式額は、約3000万。五島の持ち株は6分の1ほどになっていた。商法を調べてみる。わかったことは株主総会を招集する権利のあることだ。

三越乗っ取りに失敗

 これならやれる――商法を研究し、五島慶太は確信した。しかし、三越は江戸期以来の名門である。五島慶太の三越乗っ取り計画を、三井財閥の首脳陣は「三井財閥の危機」ととらえて動き出すのに、時間は要しなかった。株式買収は銀行から借り入れが原資。それを押さえ込むという作戦に出た。三井銀行の今井利喜三郎は三菱財閥の加藤武雄に、五島慶太に資金を提供しないように働きかける。三菱・三井の両財閥を相手の喧嘩だ。五島慶太は周囲に大洞を吹き、闘う意志を鮮明にした。しかし、資金繰りに窮する。三井銀行からの融資が途絶えるのは、想定のうちにあったが、三菱銀行までが融資をストップさせた。これには参った。こうした五島慶太の三越乗っ取り計画は挫折するのだった。

 五島慶太は懲りない男だ。次に狙ったのは、東京地下鉄道会社だった。同社の創業者は早川徳次という山梨県出身の男だった。早大を卒業し、五島と同様に鉄道院勤務の後高野登山鉄道支配人などを歴任し、大正9年に東京地下鉄道」を創設し、昭和2年に上野と浅草区間を開通させた、わが国では地下鉄草分けの人物だ。明治14年の生まれだから五島より1年先輩だ。その草分けの人物を追い出し、経営権を奪取したのだから、「強盗慶太」面目若如というわけだ。その辣腕ぶりに、世間は五島を非難した。しかし、五島慶太のために弁明しておくと、この乗っ取り事件の背景には、深刻な経営上の対立があり、その延長線上での経営権奪取だったのである。(つづく)