明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

五島慶太 - 強盗と呼ばれた経済人

目次

渋沢栄一との邂逅

 この時期、五島慶太は二人の重要人物に会っている。一人は関西の仕事 師小林一三。もう一人はヨーロッパ視察旅行から帰ったばかりの渋沢栄一だ。小林は箕面有馬鉄道軌道の経営を見事に再建し、意気揚々と東京に乗り込んできた。大阪での成功体験を、東京で生かすと自信満々である。その小林が目黒蒲田線を計画していた。渋沢は渋沢で、ヨーロッパ視察で得た計画を実現に向けて動こうとしていた。渋沢が描く構想というのは、首都圏に田園住宅を造ろうというものであった。つまり、育ちつつあった中堅サラリーマンを対象にした田園都市を建設すべく、渋沢は田園都市株式会社を設立したのである。近郊に近代的な田園都市を造るには、交通手段を確保するのが最低の条件である。

 渋沢が描くのは、理想都市構想だ。こうして新発足の田園都市株式会社は、洗足、大岡山、田園都市、玉川方面など次々と土地を買い進めていくのだった。しかし、首都近郊とはいえ、問題は交通の便だ。そこで設立されたのが荏原電鉄だった。そこで渋沢は矢野恒太に助力をあおいだ。矢野はもともと医師である。ドイツに留学後、農商務省に入り、保険業法の制定に尽力し、役所を辞めたあとは、自ら設立した相互会社第一生命の専務におさまっていた保険業界のドン。その矢野が小林一三に、相談を持ちかけた。小林は関西で実績を上げている。相談を受けた小林はさっそく五島を呼んだ。

 「五島君、郷さんと武蔵電鉄をやろうとしていると聞いている。構想は悪 くないと思うけど、だいぶカネがかかりそうだね。資金を集めるのも、大 変だろう。どうだろうか、それよりも荏原鉄道に手を貸してもらえんかね」。そう言って、小林は頭を下げた。小林の構想は、こうだ。まず荏原鉄道を先に作る。そして田園都市の建設に着手する。そうすれば沿線の土地は値上がりする。その一部45万坪を売却する。そのカネを武蔵鉄道の建設資金に充当する――というものだ。なるほど、と五島は膝を打った。五島は小林から錬金術を学んだのである。ちなみに、この手法を学び宰相の地位をつかんだのが田中角栄だ。

武蔵電鉄の売却

 荏原鉄道が社名を「目黒電鉄」と名称を変えるのは、五島が取締役として入った直後のことだ。目黒電鉄が目黒・蒲田間の全線を開通させるのは、五島が目黒電鉄に入った翌年の大正12年11月のことだ。沿線には関東大震災で家を失った人びとが移り住み、たちまち業績が上がった。他方、田園都市株式会社の方も順調に業績を上げていた。田園都市という考え方を、最初に提唱した人物はイギリスのエベネザー・ハワードである。ハワードは、その著書『明日の田園都市』で、イギリスでの都市の弊害を説き、工業の分散と都市の分散を図る田園都市運動を提唱していた。渋沢の田園都市構想は、ハワードの『明日の田園都市』から学び、策定されたものだ。昔の経済人はよく勉強をしたのである。

 目黒鉄道も田園都市株も順調に業績を上げた。田園都市株が上げる収益をもとに、五島は武蔵電鉄の株式の過半を買い取り、名実ともにオーナーになる。とはいえ、武蔵鉄道の経営は散々だった。沿線開発と鉄道計画は一対のものであり、その相互補完のなかで鉄道事業は発展するという法則を、五島慶太はまだよく理解していなかったのだ。そこで五島慶太は考えるのであった。いずれにせよ、この状態では武蔵電鉄はのたれ死にする。そして結論を出すのであった。すなわち、武蔵電鉄の売却である。武蔵電鉄を売却することで利益を上げている目黒電鉄に乗り込むという寸法だ。つまり、目黒電鉄に乗り込み、目黒電鉄および関連会社の田園都市株の支配権を握ろうという魂胆だ。目論見通りに五島慶太は東京横浜電鉄の経営権を全面的に掌握するのであった。(つづく)