明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

野口遵 - 特許をビジネスモデルにした最初の日本人

目次

政商となった技術者・野口遵

 宇垣大将を口説き落とし、野口は朝鮮銀行から4000万円の融資を引き出すことに成功する。軍人でありながら、一時は宰相との声も上がった宇垣と野口の関係。ちなみに往事の朝鮮銀行の総貸出額は1億2000万円。朝鮮銀行は朝鮮窒素に対し、自己融資の実に三分の一をつぎ込んだわけだ。いまならスキャンダルだ。しかし、戦時下のもとでは軍部の威光を恐れ、誰も非難の声は上げなかった。こうして野口は、朝鮮に巨大コンツェルン建設の実現に向け、大きく一歩を踏み出したのである。

 このときの野口遵は政商となっていた。彼が朝鮮で展開した事業を拾っていくと、その多様さに驚かされる。以下、社史からピックアップする。昭和8年5月、資本金2000万円で長津水力発電を設立。ここで日窒は14万kwの電力を確保し、硫安生産を始める。昭和11年11月、長津水力発電を一気に7000万円増資、第二発電所以下の全発電所を完工せしめ、世界一を誇るソヴィエト連邦・ドニエプル発電所(31万kw)を凌駕する32万kwの長津江系発電所を完工させるのであった。

 記録は続く。昭和12年、日本は国民総動員体制のもと、戦時下に突入したこの時期に朝鮮での野口は、100万kwの発電を目指す朝満合併の鴨緑江水力発電計画をぶち上げるのだった。資本金8000万円のうち、野口自身は2000万円を個人で引き受け、ダム建設の陣頭に立つ。この計画では7つのダムが建設され、鴨緑江をそれに連結させて流すという大工事を完工し、これが朝鮮戦争のときに有名になった「水豊ダム」の建設の一部である。米軍が幾度も爆撃を試みたが、堤防を破ることのできなかったダムとして知られる。ついでながら、工事施工を引き受けたのは日本工営である。

敗戦で消えた日窒コンツェルン

 ダムが建設された下流には、日窒を中心とする企業が次々と工場が建設される。以下に社史を引用する。昭和9年12月に日本アルミ金属、同年10月に朝鮮石炭工業、昭和11年に朝鮮窒素火薬、大豆化学工業、朝鮮石油など朝鮮の重工業化は着々と進んでいったのである。この時期、野口は満鉄中央試験所と提携している。大豆を原料とする化学工業を興したのも、満鉄中央試験所の研究成果を取り入れてのことである。こうして朝鮮における野口の夢――日窒コンツェルンは、その全容を著すのであった。

 その意味で野口遵は数少ない成功者である。当時の規模で数十億円の富 を築き上げた日窒と野口遵。しかも満州事変から数えれば、わずか6年の期間で作り上げた帝国であったという事実を考えれば、それが戦時体制のもとであったとしても、大変な事業家であったことが理解できよう。しかし、日窒コンツェルンが朝鮮に築き上げた全資産は、敗戦とともに陽炎のように消えてしまう。いまでは、日窒コンツェルンの存在すら忘れさられている。わずかに野口遵の事績を顕彰するのは、旭化成延岡工場に残る碑のみだ。

三十年の夢から覚めて初日の出

 日窒コンツェルンを形成した野口遵という男は、確かに卓越した企業指導者であり、天才肌の技術者だった。朝鮮での事業では、そのスケールの大きさから、野口は畏敬の念をこめ「半島の事業王」と尊称された。日窒コンツェルンが確立した昭和15年。野口遵はソウルで脳溢血に倒れ、以後は事業から手を引き、翌16年の正月に近親者や側近たちが集まった席で、「三十年の夢から覚めて初日の出」などと俳句を詠じてみせた。30年の夢とは何であったのか、野口はやがてくる敗戦を予期していたのであろうか。聞きようによっては、野口は自らの事業を自らが全否定しているようにも聞こえる。

 晩年の野口は寂しかった。全財産3000万円を惜しげもなく寄付し、敗戦をまたずに野口は昭和19年1月、72歳で死去した。ついでながら、昭和17年当時、日窒コンツェルンは直系子会社30社、払い込み資本金は3億5000万円に達した。しかしながら敗戦ともに、主要な拠点であった朝鮮での資産を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずして実質日窒コンツェルンは瓦解してしまうのであった。野口遵が事業家として生きた人生は約30余年である。それが長いか短いか、まさしく夢から覚めたとき、彼が残したものは幻であったことに気づいたのであろう。自伝や評伝を読んでいて、気がつくことがひとつある。野口が楽しく語るのは、仙台で友人藤山常一とやったカーバイト事業化やドイツで世話になったケイラーやヘルマンのことである。

 野口遵は家が貧しく、有力な親戚縁者もなく、事業の道は一人で切り開かねばならなかった。大学を卒業し、シーメンスに入ったのちも、より高い給料を求めて職を転々とした。だが、決して諦めない精神の持ち主であった。多くの評伝作家は、野口の朝鮮での事業をほめる。確かに短期間でやり遂げた事業は壮大である。しかし、彼の資料を読んでいて感銘を受けるのは、特許の有用性に気づき単身ヨーロッパに渡り、交渉をする野口の姿だ。藤山といっしょにカーバイト事業を手がけた経験があるとはいえ、空中の窒素を取り出す事業は、やはり未知の分野だ。その意味で野口の原点は宮崎延岡にある。地元の人たちは野口を「地元の人」と信じている。(完)