明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

山本条太郎 - 情報をカネに替えた草分けの商社マン

 明治初期の横浜はドル投機に沸いていた。外国と取り引きするにはドルが必要で、商売上の必要からの投機だ。それよりも何よりも、人びとを魅 了したのは、一夜にして巨額の富を手中にする夢が実現できたことだ。相場はカンである。ときには、数万円の荒稼ぎをする小僧が現れる始末で、それこそ大人も子どもも、投機熱に浮かされたものだった。三井物産の横浜支店に、山本条太郎という小僧がいた。まだ小学校を出たばかりの少年で顔はまだ子どもである。しかし、度胸があり、愛想がよく、如才のない小僧だった。もちろん、支店長は店員が相場に手を出すことを厳禁していた。あたりまえのことで、損をして穴をあけられたらかなわないからだ。

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上司馬越支店長がかけた温情

 条太郎少年は、禁を破って、相場に手を出した。最初は儲けたらしい。博奕というのはそういうもので、長くは続きはしないものだ。たちまち、少年は損をして穴を空けてしまった。翌年、条太郎少年は東京転勤を命じられる。本来なら首になるところだが、条太郎少年の才覚を惜しみ、ときの支店長馬越恭平が条太郎少年を東京に転勤させることで収拾を図ったのである。明治人は人間を宝と考え、大切にした。リストラで簡単に首を切る現代の経営者とは大違いだ。ときに明治15年のことだ。ちなみに馬越支店長はのち三井系列の日本ビールの社長になる人物である。

 山本条太郎は越前福井の人である。父条悦は福井藩主松平慶永の茶坊主だった。明治維新後、多くの侍が職を失うなか、条悦は藩主一家とともに東京に移った。おかげで食いっぱぐれることはなかったが、茶坊主の身分だ。家計が豊かであろうはずもなく、条太郎が小学校を卒業すると同時に、14歳で三井物産の横浜支店に小僧に出されたのは、そんな家庭の事情からだった。条太郎少年はドル相場で失敗し、馬越支店長から叱責を食らい、東京勤務となった。しかし、馬越支店長の温情に感謝しつつも、この少年は相場の失敗から多くを学んだことだ。そこが並の人間とは違うのである。

益田社長に認められた幸運

 後年、山本が勝負師として頭角を現すのは、このときの経験が役に立ったのかもしれない。相場に手を出す恐ろしさも相場で勝ち馬に乗る恍惚も、このとき十二分に味わったというわけだ。小僧の失敗を許す、三井物産の社風も、見上げたものである。さて、東京勤務となった条太郎少年のことである。命じられたのは、米の買い付けだった。その米の買い付けの成功で、益田孝社長に認められる幸運をつかむ。支店長に内緒でドル相場に手を出し、そこで得た教訓を生かしての米の買い付けだったのだ。

 幸運は偶然の機会からやってきた。そのころ三井物産の米方主任は、宮本新右衛門という人物で、人を見る確かな目を持っていた。あるとき、条太郎少年に宮本主任は、利根川の米の集積地に出向き、米を買い付けるように言いつけた。先輩手代が急用で、出向くことができなくなったための代役だった。米の買い付けを無事すませたのはいうまでもない。条太郎少年は店に帰ると、長文の業務報告書を書いた。幼少のころから条太郎は文章に長けていた。現場の詳細な調査の上にたち、報告書には、米の商況と将来の買い付けに対する戦略が提案されていた。なかなかの名文。しかも達筆である。報告書を読んだ宮本主任は感嘆した。大変な小僧だ。宮本はすぐに益田社長に報告書を上げた。内容もしっかりしていて上司たちは改めて少年の能力に驚いた。益田社長もすっかり感心した。

 さっそく益田は条太郎少年を自室に呼んだ。条太郎はこのときのことを自叙伝に「自分の一生のなかでもっとも痛快な一瞬であった」と書いている。こうして条太郎は、手代見習いへと異例の抜擢を受ける。少年の喜びがひしひしと伝わってくる。益田に見込まれた条太郎は、以後、成功への道をまっしぐらに突き進む。とはいえ、絵に書いたような出世街道というわけではなかった。失敗もあり、挫折もあった。条太郎はよほど相場が好きであったらしい。またも、相場に手を出してしまうのであった。