明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

藤岡市助 - 我が国最初の大学ベンチャー

目次

もうひとつの電灯会社構想

 藤岡は山尾を前にして、電灯会社設立の必要を説いた。過激派志士あがりの山尾は理解が早かった。ひとつのことをなすには、多くのひとびとの協力が必要だ。山尾はすぐに矢島作郎を紹介する。矢島もまた、維新のおりには、白刃をくぐり抜けた過激派志士の一人であった。長州藩派英留学生として、山尾と同じくロンドンに渡り、金融財政を勉強した男は、藤岡の「大山師話し」に熱心に耳を傾けた。当時、矢島作郎は造幣局長の職を辞して銀行頭取を務めていた。矢島の人を見る目は確かだった。

 矢島はすぐに人を集めた。こうして発足するのが「東京電灯」である。明治15年3月に東京府に対し、設立願いを提出し、これが認められる。設立発起人は、矢島作郎、三野村利助、大倉喜八郎、原六郎、柏村信、蜂須賀茂詔など錚々たる陣容である。新会社のスタートは順調であるかにみえた。ところが思わぬ障害が立ち現れる。同様に電灯会社を設立する動きが出てきたのだ。事業化に成功するかどうかもわからぬ時期に、同じ東京で二つも電灯会社ができれば、共倒れになるのは必然だ。藤岡は素早く動いた。まず矢島を口説き、渋澤栄一を介し、もうひとつの電灯会社「日本電灯」と合併する話を進めた。

藤岡博士の設計にして点火せり

 こうして藤岡市助は電灯事業に乗り出すのだが、なお学問の人でもあった。工部大学校にあっては、組織改革に取り組み、電気通信科を電気工学科に改組するなど行政的な手腕を見せる一方で、土木鉱山用の手回し発電機の開発や、アーク灯の改良研究に取り組んでいた。土木鉱山用の手回し発電機の製造は、岩国養老館以来の親友で、技術者でもある三吉正一が製造を手がけた。この発電機は小型軽便であるため、需要は大きかった。大学ベンチャーとしてのはじめてのヒット商品だ。しかし、本業は電灯である。アーク灯の改良研究に心血を注いでいた。このころの藤岡の研究とその実験の記録を、当時の電機工学科事務主任であった牧野良桃が記録を残している。

 藤岡博士の設計にして、明治17年工部大学校作工場に於いて製作したるものなり。但し、鋳物は川口鋳物所に依頼せしめたり。蓋し本邦製発電機最古のものとす。銀行集会所新築祝いに於て電燈を点火せり。藤岡博士の設計にして、明治19年工部大学校作工場にて製作したるものにして、略125電圧40電流(推定)なり。工部大学校書房に60個の白熱電燈を点火したり。憲法発布当日、帝国大学正門に電燈をもって万歳の2字を表し祝意を現したるとき、この発電機を使用したり。此時約100灯の白熱燈を点火せんとして成功せず、80灯に減じて満足なる結果を得たり。藤岡の奮闘ぶりが目に浮かぶ。