明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

藤岡市助 - 我が国最初の大学ベンチャー

 今回の主人公は、我が国最初の大学ベンチャーだ。安政4年3月、この主人公は長州毛利藩の周防に生まれた。その名を藤岡市助という。東京に 最初に電灯をともした男としても知られるが、私には日本最初の大学ベンチャーである。藤岡は「日本のエジソン」とも呼ばれている。明治11年3月25日、藤岡は工部大学校の学生として、点灯実験に参加し、日本ではじめて電球をともした人物だ。この日を「電機記念日」とするのは、この事績を記念してのことだ。藤岡は数多くの発明をなしている。アーク灯や白熱電球を実用化したのも藤岡市助だ。エレベータを作ったり、電車を走らせることもやっている。エジソンとの出会いが、彼の運命を決めたというひともいる。

目次

再先端科学を専攻

 藤岡が生まれたこの時代、世の中は騒然としていた。ペルリー率いる艦 隊が浦賀に押し寄せ、開国を迫り、その開国の是非をめぐり、国論が二分され、それが契機に300年続いた幕藩体制が崩壊した激動の時代である。藤岡の生家は、石高こそ低いが、戦国以来の名門であったという。周防藩は学問の熱心な藩だった。藩校「養老館」の他にも、城下には幾つも私塾があったことでも、それはわかる。いうまでもないことだが、侍身分の子弟は8歳になると藩校に入ることを義務づけられていた。藤岡市助が養老館に入るのは、慶応元年のことであった。この時期、周防藩は親藩長州藩共々、辛酸をなめた。幕府にたてつき、二度にわたる長州藩征伐で多くの犠牲者を出している。

 しかし、時代は大転換する。市助少年も時代に翻弄された。17歳にな った市助少年が、旧藩主の奨学金を得て、後の東京帝国大学工学部の前身・工学寮に入るのは、明治8年のことだ。旧藩主の奨学金を得て、東京遊学を果たすのだから大変な秀才であったのであろう。まだ学制も整わぬ時代のことだが、しかし、工学寮の入学試験は相当な倍率で、市助が希望した電信科の合格者はわずか6名であった。ちなみに当時の電信科は、いまでいえばバイオとかミクロの世界を探求するナノテクノロジーなどに匹敵する、当時では最先端の学問分野であった。藤岡市助がなぜ、電信科を選んだか。岩国時代に学んだ英語教師・スティーブンスの影響が大きかったと指摘する評伝作家もある。

虚学を嫌い、実験を重視する学風

 工学寮に入学するに先立ち、藤岡は郷里の先輩・江木千之(後の文部大 臣)を訪ねている。進路を決めるための相談だった。このとき、藤岡は工学寮入学の希望を語った。親藩長州藩は、政治の世界を牛耳る。しかし、支藩周防出身では、政治や軍人の世界で生きるには頼るべき縁故もない。それで技術者の道を選んだのではなかったのか。江木は藤岡少年の覚悟のほどを知り、大いに感銘した。以来、江木は藤岡の後援者のひとりになる。

 翌年、工学寮は工部大学校と名称を改めた。藤岡はお雇い外国人教師・ ウィリアム・エアトン教授のもとで、研究生活にはいる。エアトン教授は実業を重んじ、実験を通じた体験的な学問の大切さを学生たちに教えた。問題解決能力を身につけ、基礎が大事だとも強調した。高潔な人柄の人物で、まじめな学究・エアトン教授に藤岡は惹かれた。実験を重視し、理屈ばかりでなく、実用の大切さを、藤岡は学んだ。藤岡は実習生として、青森と函館を結ぶ海底ケーブルの敷設に参加している。しかし、藤岡が世間の注目を浴び、その名を知られるようになるのは「電灯」の世界でのことだ。