明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

渋澤栄一 - 日本資本主義の父

目次

資本主義というシステム

 渋澤はパリ滞在中にもう一つ重要なことを学んでいる。4市民平等の考え方だ。フランスは市民革命を経て、「自由・平等・博愛」を理念にする共和制の国家だった。身分制を墨守する日本とは大違いだ。フランス側の接待要員に銀行家のフルーリ・エラールという人物がいた。日本では金貸業の身分は低い。しかし、彼は堂々としている。同僚の陸軍大佐に対しても、臆することなく話しかけ、仕事を進める姿に驚かされた。陸軍大佐はいわばサムライだ。サムライと町人が対等に口を聞くなど、渋澤には思いもよらぬことだ。炯眼というべ きだが、このとき渋澤は「経済の発展は平等にあり」と見たのだ。

 株式資本の考え方は福沢諭吉が「西洋事情」で紹介していた。福沢は啓蒙家であり、卓越した教育者ではあったが、残念ながら実践者ではなかった。想像するに渋澤も福沢の「西洋事情」は読んでいたに違いない。当時では西洋事情を識る唯一の書物だったからだ。しかし、知識と事業とは異なる。渋澤は訪欧で学んだのは、知識ではなく事業をやり遂げる方法である。変わり身の早い渋澤はすぐれた実践者でもあった。知識を行動のエネルギーに変え、事業を起こす。それは渋澤の終生変わらぬ行動の原理でもある。帰国後、渋澤は静岡で日本で最初の株式会社「商法会所」を創設する。

固辞から一転出仕

 事態は暗転する。慶応4年(1869年)4月、パリの使節団のもとに一通の書簡が届けられる。書簡を開き、徳川昭武は驚愕する。そこには幕府が政権を朝廷に返還したとあったからだ。いわゆる大政奉還である。もう徳川本家は一大名に過ぎなくなったというのだ。その年の9月に明治と改元。続いて使節団のもとに新政府から帰還命令が届く。最初の予定3年を、1年半で切り上げ、使節団は引き上げることになった。使節団一行は同年4月に横浜に到着している。徳川幕府が瓦解した日本は、何もかも変わっていた。

江戸は東京と改められ、江戸を支配していたのは薩長を主力とする官軍だった。上野戦争で敗北した徳川軍は、函館に引きこもり、官軍と対峙している。将軍慶喜は官軍に恭順の姿勢をしめし、静岡に隠棲しているとの話だ。渋澤は迷った。ヨーロッパで学んだ新知識を、新国家で生かしたいとも考える。しかし、新政府に出仕するのも、屈辱に感じられるのだった。結局、渋澤がこのとき選んだのは、静岡に隠棲している慶喜のもとに行くことだった。そこで渋澤は旧幕臣や主君慶喜とともに、余生をおくるつもりになっていた。

 しかし、新政府は渋澤をほおっておかなかった。渋澤の能力を買って、新政府に出仕しないかと誘ってきたのだ。もちろん、渋澤は謝絶した。その渋澤を説得したのが、新政府のもとで民部大輔を務める大隈重信だ。大局に立て!日本国家のためじゃないか、国家は君の才能を必要としている――というのが説得の論旨である。大隈の説得を入れ渋澤は翌年11月、租税司に就任する。いまでいう国税庁の課長職だ。ここでも身代わりの早さを示す。明治3年、民部省から大蔵省が分離独立したのを機に、渋澤は大蔵省に移り、同年8月大蔵少丞に、翌年には大蔵大丞に、とトントン拍子で出世を重ねた。(つづく)

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