明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

中部幾次郎 - 大洋漁業の創業者

目次

迫りくる危機

 しかし、事業はいつも順調だったわけではない。朝鮮海峡では海難事故に遭遇し、大切な部下を失った。天気予報で漁獲高を予想してみせた幾次郎ではあるが、もともと魚商売は水物だ。仲買運搬業は投機的な性格の強い商売で、一夜にして無一文になることも珍しいことではなかった。企業規模が大きくなれば、それだけリスクも大きくなる。大正に入ると、北洋漁業がにぎわいをみせ、幾次郎は大船団を編成し、北洋漁業に乗り出した。北洋ではホッケ、鱈、鮭、そして蟹漁だ。海には大金が浮いている。漁業各社は北洋に乗り出した。洋上加工が始まるのも、このころだ。小林多喜二の『蟹工船』を思い起こしいただければ、おわかりのように、しかし、北洋はまことに厳しい海で、海難が相次ぎ、さらに不魚がたたり、会社は経営危機に立たされた。おりから金融恐慌が勃発し、資金調達も思いにまかせず、幾次郎は後に「銀行も親戚も一文のカネも貸してくれんもんで、首でもくくって死んでしまおうか......」と、思ったことがあると述懐している。

 しかし、粘りの経営者幾次郎はへこたれなかった。北洋から南氷洋に方向転換したことが会社を救った。太洋捕鯨を設立し、南氷洋に捕鯨船団を派遣するようになるのは、昭和11年のことだ。ようやく南氷洋漁業が軌道に乗り出したとき、幾次郎にはいま一つの危機が迫っていた。中国戦線は泥沼の状態に陥り、満州問題をめぐり、日本は国際的孤立を余儀なくされ、とりわけアメリカとの緊張関係が高まっていた。強まるのは、軍国主義の胎動である。産業界にも「新体制運動」が広まっていた。それは軍部を背景に、戦時革新官僚と迎合的な経済人が、水産業をして臨戦態勢に駆り立てようとする「革新運動」であった。民間事業会社を解体し、官営漁業会社を再編統合するのがこの運動であった。政府の考え方は、日魯、日水、林兼の水産会社を統合し、中央統制機関として帝国水産統制会社を設立しようという構想だった。統制会社に参加するかどうか、幾次郎は重大な決断を迫られたのであった。

 幾次郎は自由な経済人である。経済は経営者の創意工夫と努力により、自由な競争のもとで成立するというのが信念だ。だから経営に国家が介入していることなど、とんでもないことだと考えている。だいたいが、幾次郎の林兼商店は、国家の世話になど一度もなったためしがない。水産業で三本の指に数えられるまでに発展を遂げたのは、幾次郎自身が先頭に立ち、従業員と一緒に汗水流し、幾多の困難を乗り越え、切り開いてきたからだ。それよりも何よりも、漁業、とくに遠洋漁業は平和な国際環境のもとでしか成立しない事業だ。戦争が始まれば、開かれた海洋と漁場が閉ざされてしまう。大声を出してはいえぬことだが、幾次郎は戦争に反対なのであった。

農林大臣を糾弾した怒りの手紙

 体制迎合は世の習いだ。そこには欲得も絡む。体制に順応することで、生き延びようと画策する輩が出てきても、不思議ではない。大義名分もある。国運を賭する大戦争だ。絶対に勝たねばならぬ戦争だ。ここは私心を捨てて、己を犠牲にしても、国家の要請に応えねばならぬ、そういう類の大義名分だ。こうして水産業界も、挙国一致の名のもとに、統制・統合が図れていくのだった。しかし、幾次郎は違った行動を取った。事業は経営の自由と相互の競争によって切磋琢磨され、産業の向上が実現するものだ。その競争を阻むような統制なり、統合はいかなる美名のもとでも、産業意欲を阻害し、結果において、水産業の弱体を招くものだ――と、幾次郎は果敢に主張するのであった。

 しかし、正論が通り難いのはいまも昔も変わらない。国家の重大事を奇禍として、自らの利害を主張する者も現れる。水産業界の統制を熱心に推進したのは、ときの農林大臣井野碩哉という男だった。農林大臣は林兼の競合相手、日本水産の元重役でもあった。漁業統制会社の設立は日本水産のかねての主張でもあり、いってみれば、井野は政界における日本水産の代弁者というわけだ。これは林兼つぶしが狙いだ。幾次郎が怒るのも無理はない。幾次郎は農林大臣に宛てに「戦時統制は戦力の増強と日本水産業の興隆を希う目的であるのに、この非常時を機会として水産企業の覇権をたくらむ者があるから困る」と怒りの書簡を認めたのは、こうした事情があったからだ。(つづく)