明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

中部幾次郎 - 大洋漁業の創業者

 エンジンはことのほか好調だった。幾次郎の命名による「新生丸」がかつての念願であった朝鮮漁場に入るのは明治40年のことだ。「新生丸」なら遠くの漁場まで足をのばすことができる。目をつけたのは、朝鮮半島の沿岸だ。複雑な海岸線を持ち、しかも暖流寒流が交互に交わる対馬海峡は魚の宝庫だ。この漁場に漁船を乗り入れるのは、風を頼りの和船では不可能だったが、発動機を取り付けた漁船なら十分乗り入れることが可能だ。マルハの屋号を押し立てた新生丸はたちまち朝鮮漁場の寵児となり、林兼は一気に漁獲高を飛躍させたのだった。このとき幾次郎は40歳。まさしく不惑の歳となっていた。

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事業は人の和で発展する!

 40は働き盛りだ。魚屋には昼夜がない――というのが、幾次郎の口癖で、幾次郎は働くことが大好きな男だ。休みということがなかった。魚屋という商売はまことに忙しいのである。本社を下関に移し、林兼は押しも押されもせぬ漁業会社となっていた。しかし、幾次郎はダンナ然と構えることはなかった。下関の魚市場には、買い付け、積み込み、運搬と自ら先頭に立ち、立ち働く幾次郎の姿があった。魚屋には昼夜がない――を、従業員たちに自ら実践してみせたというわけだ。そうしている間にも、幾次郎は朝鮮からの魚買い付けの拡大や、輸送の生命たる発動機の改良改善に苦心を続ける一方で、同族経営を維持しながらも、有為の人材をどしどし登用し、思い切って責任を与え、業務を遂行させるのであった。人使いは荒いが、しかし、幾次郎には人情味があった。それがまた人材を集めるようにもなる。このころ、幾次郎はよく口にしたのは「事業は人」の言葉だ。

凡庸な男の粘り

 それは、後に「人は信頼によって結ばれ、事業は人の和によって発展する」いう大洋漁業の社是として発展する考え方だ。ともあれ、一隻の発動機に曳航させるところからスタートした林兼商店は、ついに自前の発動機船を持ち、朝鮮海峡に乗り入れて、そこを基盤に着実な発展を遂げていく。大洋漁業の社史を開いてみると、以後大正5年には魚運搬業から漁業の直営に乗り出し、多角経営へと経営を転換させて、大正7年には遠洋捕鯨を手がけるようになる。大正11年には林兼造船所を設立し、我が国最初のブライン式彦島冷凍庫を商品化している。魚加工に加えて、トロール漁業を始めるなど総合水産会社の体制を整えるのは、この時期のことである。

 人は幾次郎を偉大な経営者と呼ぶようになる。しかし、よくよく彼の行動を観察すれば天才的であるとか偉大な経営者と呼ぶのは間違いであることに気がつくはずだ。幾次郎は誰もが気がついているが、それを実行し得ないものを、実現に移す勇気と根性を持ち合わせていた。しつっこい性格なのである。たとえば、魚は鮮度が大事だというのは、誰でも知っている。遠い朝鮮の漁場に出向けば、魚の宝庫と出会える。魚屋ならば誰でも知っていた。問題は方法と実行力だ。その方法を考え、実行に移すところが、幾次郎が並の人間ではなかった。船足の速い原動機つきの輸送船を思いつき、船足を遠くまで伸ばし、漁場を拡大し、鮮度の高い魚を手に入れた。凡庸な男の粘りなのである。(つづく)

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