明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

小林一三(いちぞう) - 希代の遊び人事業家

目次

過剰電力対策

それでも巨大な設備を抱え、電力供給過剰の状態にある。供給過剰対策として肥料工業の立ち上げを構想するのは、昭和3年のことだ。朝鮮や満州では安い電力を利用し、肥料工業が盛んとなっていた。あるとき、出入りの新聞記者から化学肥料は大量に電力を消費するという話を聞く。人を介して、会ったのは森矗昶だった。相談を受けた森は決断の早い男だ。ここに昭和肥料が誕生する。昭和肥料は昭和14年に日本電工と合併し、その後の昭和電工となったのはご承知の通りだ。工業化を目指したのは硫安だ。最初は欧米の技術を買って工業化を図ったが、商工省の応援を得て、日本技術による硫安生産に成功し、この事業は電力消費対策ということだけでなく、日本の肥料工業の発展に大きく寄与したとして高く評価されている。昭和10年、小林一三は訪欧の旅に出ている。そのときソ連でアルミの生産現場をみている。日本軽金属を立ち上げ、アルミの本格生産を企図するのは、この旅がきっかけだった。アルミも電力を大量に消費する産業だ。なお、小林はこの次期にヨーロッパを旅行し、後に欧州歴訪の記録を出版している。

もちろん、本業の鉄道事業を忘れていたわけでない。東京進出と同時に、目黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄の取締役も引き受けていた。両者の合併で東京急行が誕生し、また渋沢栄一に協力し、田園都市株式会社の立ち上げにも参画している。東急の創始者・五島慶太との親交が始まるのは、この頃からだ。当時、五島慶太は鉄道省を辞め、武蔵野電気鉄道で常務の職にあった。東急を創設するのは後のことであるが、事業を進めるに際して何かと相談した相手は小林一三であったと五島は後に語っている。昭和14年、小林は取締役として三越に乗り込む。人生というのはわからないものだ。三井銀行から三越入りを希望したのは30年前のことだ。しかし、希望は入れられず、失意の日々を送り、それから30年後に三越重役となるのである。これには、ひとつの物語がある。五島慶太が三越乗っ取りを画した事件だ。怒った三井側は東急への融資を停止した。そこで和解に動いたのが小林だったのだ。五島が持つ三越株を三越の子会社に譲渡し、残りを東急と阪急が持つ、というのが和解案で、小林は阪急の代表として三越取締役に就任したのだった。

天才は努力の人だった!

昭和14年、小林一三は東電社長を辞任する。もともと小林は自由な経済人である。しかし、時局は統制経済に入っていた。抵抗を試みるが、時局には勝てないと判断しての辞任であった。欧州歴訪から帰国すると、東京の別邸に訪ねる人があった。近衛文麿の代理人と称する人物だった。近衛内閣の商工大臣をお願いしたいというのが用向きだった。天下国家のため一肌脱ぎたいと大臣を引き受けることにしたが、商工省が進める国策は統制経済である。小林は生来の自由主義経済の信奉者だ。引き受けてはみたが、とても務まらぬと思った。小林は「大臣落第の記」を発表し、辞任する。遊び人は自由であらねばならぬ――と。

池田成彬は小林を評し、後に語っている。何か問題にぶつかるといくらでも智慧が出てくる不思議な人物だった。読んだり聞いたりした普通の学問から割り出した考えではなく天才です――と。今日でいう創意だ。そして用意周到であった。そして小林一三は数々の事業で成功を収め、大阪の人びとは「今太閤」と呼んだものだ。文学を志し、いやいやながらの銀行勤めは不遇だったが、運命を変えたのは箕面有馬電鉄に入ってからだ。阪神線の開業に際し、アッと言わせる広告宣伝を打ち、駅員には制服制帽で接遇させるなど庶民感覚もあった。しかし、小林は徹底した合理主義者であった。それは東京電灯での経営再建でみせた手腕にも認められる。池田は天才というのだが、しかし、小林は努力の人でもあった。この人物が都新聞に入り、希望の文学の世界に入ったとしたら、どのような作品を残すことになったか、小林の自伝を読みながら、しばし考えたものだった。(完)