明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

小林一三(いちぞう) - 希代の遊び人事業家

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関西経済界を敵に回して!

朝日新聞社主村山竜平の言い分は、こうだ。自分の庭の北側を横切るような格好で電車は走る。それでは騒音に悩まされる。しかし、小林君も商売で進めている事業であるから自分も100万ほど資金を用意する。そのカネで電車を地下に潜らせてはどうか――というのが要求のあらましだ。なるほど、それなら騒音に悩まされることはない。現在ならそう考えるであろう。しかし、時代鉄道の創世記だ。トンネルを掘る技術的未熟で、カネがかかるばっかりで、電車を地下に潜らせるのは、困難だった。それでも小林は地下鉄化について調査をしている。このあたりが誠実なところだ。地質技師たちの結論は、岩盤が堅くとても地下化は困難であるということだった。とはいっても、関西経済界がこぞって反対に回っているのを、無視するわけにはいかぬ。そこで出した結論は路線をS字状に迂回させることだった。自民党副総裁を務めた大野伴睦が新幹線をL字に曲げたのは有名な話しだが、阪神・伊丹線が大きく弧を描いているのは、このような事情からだ。

難工事の末に神戸本線30キロおよび伊丹支線3キロが開通するのは、大正9年7月と記録されている。開通を祝うその日の新聞に大きな広告が出た。新しく開通を、大阪または神戸ゆき急行電車、市電上筒井にて連絡、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車――と。まあ、それにしても、ガラアキをうたい文句にするとは、奇抜な広告だ。凡人なら思い浮かばぬ宣伝文句であり、逆説の人小林一三の面目改まるというところであろう。かくして小林の鉄道事業は軌道に乗り、大正10年には西宮北口~宝塚間約8キロを開通させ、同年12月には岸本から借入した300万円を完済できるほどに業績を回復させた。おかげでガラアキの電車は満員となった。以後も鉄道事業は快進撃を続け、阪神間の所用時間を1時間から35分に短縮したり、梅田駅の高架複々線化に取り組むなど、往事では画期的な事業を展開し、関係者の注目を集めたものだった。

やるならば一流の歌劇団

正直にいえば、鉄道事業家としての小林一三よりも、私には以後の小林の方が好ましく感じられる。事業家でありながらも、自由な発想をする小林一三だ。つまり宝塚少女歌劇団の創設だ。宝塚少女歌劇団を構想するきっかけは、大阪三越の少年音楽隊をみたのがヒントになったという。社史を調べてみると、第一期生を募集したのは大正3年だ。少女歌劇団としたのは、少女ばかりを集めることで世間の注目を集めようとしたこと、少女ならば人件費も安くつくであろうという計算からだった。芸名をすべて小倉百人一首にちなんでつけたのは、小林のアイデアだった。しかし、小林はすべて安く上げようと思ったわけではない。やるならば一流の歌劇団を――と、いうのが小林のねらいからだった。

そういうわけで団員を厳選し、指揮者や作曲家などは超一流の人物を招聘した。ちなみに作曲家は安藤弘、歌唱指導には安藤夫人のちゑこを、音楽指導に高木和夫などいずれも一流の芸術家が招かれた。最初は少女合唱隊としてスタートしたが、安藤弘の指導のもとに第2期生以後はオペラを演じるようになり、宝塚温泉プールを改装した新劇場での二ヶ月に及ぶ公演は大当たりをした。大正4年以後、宝塚少女合唱隊は歌劇団として公演を続け、文部省私立学校令にもとづき「宝塚音楽劇学校」を発足させ、小林自身が初代校長に就任するのは大正8年のことだ。団員の教育は厳格を極め、学内規則も厳しく、女子教育の範とされた。宝塚歌劇団の緑の袴姿は全国少女のあこがれのまとになった。もともと宝塚温泉の余興として思いついた少女合唱団は、こうして世界にも類のない少女を主役とするエンターテイメント事業として成長を遂げるのであった。(つづく)

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