明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

鈴木三郎助 - 味の素の創業者

目次

ネットを張り耳をすます――と

と言うのも、これは対等合併であったからだ。ただし葉山のかじめ工場は残した。もしものとき――と考えからだ。欲のない男だと世間は言った。その評判に乗り、三郎助は沃度業界を三分していた他の二人の説得にかかる。ここでも、日本人同士が争って何の得になる――と口説いた。なるほど、と相手は合点する。こうして沃度業界をほぼ独占する日本化学工業を設立するのは明治40年のことだった。巧みなのは、社長には財界の大立て者大倉輝八郎を迎え、自らは専務に就任したことだ。日本化学の設立でも、欲のない男だとの評判を取った。もちろん、大倉が引き受けた社長職は名誉職に過ぎず、実際に会社経営の采配を振るったのは、専務職の三郎助だ。

このころの三郎助は新進気鋭の立派なビジネスマンで、相場に明け暮れた男ではなくなっていた。人びとは三郎助に人間としての幅が出てきたというようにもなった。沃度事業だけじゃ限界がある、何か面白い事業がないものか――と、三郎助は新規事業に意欲を燃やすようになるのはこのころだ。ネットを張り巡らせ、他人の話に耳をすませる。そうすると聞こえたのは東大助教授の池田菊苗博士の存在だった。池田博士は「味精」なるものを特許申請しているとの話だ。味精とは言うまでもなく「味の素」の元祖だ。調べてみると「味精」は昆布を原料に作られるものらしい。原料が昆布というから、距離感のある世界の話だ。これは商売になると判断した。さっそく池田博士に接近を図る。

グルタミン特許に用意した条件

池田博士が開発に成功したのは昆布を原料とするグルタミン酸だ。すなわち、昆布をダシにすると、うま味が出るのはグルタミン酸の働きによるものだ――というのが、池田博士の学説だ。さっそく提携を申し出た。しかし、池田博士の特許に着目していたのは三郎助だけではなかった。日本最大の財閥・三井物産も接近していた。池田博士はどっちをとるか――。何せ、バックもなければ、資本力にも限りがある。三井物産は名声と資本力を武器に提携を実現しようとしている。そこで三郎助は、例の口説き上手を発揮する。しかし、口先三寸で丸め込めるような相手ではない。理屈を通し、相手にも利益が十分あるように、きちんとしたスキームを用意した。

特許を買い取るのではない。共同経営をやりましょう。商売の方はワシが引き受け、先生にはもうけ(売上げ利益)の3パーセントを差し上げましょう。それが池田博士に提示した条件だ。破格の条件と言ってよいだろう。果たして「味精」が企業レベルで採算に乗るかどうか、まだ未知数だった。それでいながら、この条件だ。三郎助にとっては賭けてといってよかった。しかし、米相場とは違う。実態のある事業だ。それに日本化学の経営を通じて、多くの経験をしている。会社も大きくなり人材もそろっている。三郎助はグルタミンの勉強もした。昆布からグルタミン酸を抽出するだけでは限りがある。調べてみると、小麦からもグルタミン酸が抽出できることもわかった。

グルタミン酸製造工場は三郎助が事業家として自立した故郷神奈川の葉山に建設することを決めた。原料を小麦に求めることにしたのは卓見だった。しかし、これが技術的になかなか難しい。小麦からグルタミン酸を抽出するには、塩酸で分解する必要がある。技術的な問題を考えたのは弟忠治だった。実験は重ねられる。池田博士も協力的だった。白い粉末にするのが最終目的だ。しかし、砂糖や塩を精製するとはわけが違う。硫酸という劇薬を取り扱うのだから危険がともなう。実験設備から立ち上る硫酸霧は、作業着をボロボロにするほどの代物で、人体に害を与えるからだ。実験は幾度も失敗し、費用はたちまち底をつき、所有していた日本化学の株式も売らなければならなかった。三郎助にとっては文字通りの背水の陣である。ベンチャーは昔から苦労させられるものだ。(つづく)