明治・大正・昭和のベンチャーたち

日本はいま百年に一度あるかどうかの一大変革期であり、新しいビジネスを生み出す絶好のチャンス。同じ変革期であった明治・大正・昭和の経済人たちから、無から有を為す技を学ぶ。

鈴木三郎助 - 味の素の創業者

目次

待ち受けていた強敵

三郎助は母と妻の仕事振りをじっくり観察した。カンのいい男だ。朝早く浜辺から拾ってきたかじめを丁寧に乾燥する。乾燥かじめを焼き、灰魂状にしたものがケルプだ。浜辺から拾ってくるかじめだけではたかが知れている。三郎助も母に似て、思い立ったら行動は早い。原料かじめを大量に確保するため、三浦半島から東海、房総半島まで広く手を伸ばす。もっと合理的な生産の方法はないものか――と、研究も怠らない。ケルプ製造はいつしか家業となり、家業に弟の忠治も加わった。三郎助は商売上手だ。忠治は寡黙な男で研究者タイプだ。ケルプを売るだけじゃもうけもたいしたことない。ケルプを原料に、多用な製品が作れる。それをやろうじゃないかと言い出したのは忠治だ。塩化カリ、沃度チンキ、沃度ホルム、硝酸などを手がけるようになるのは忠治の提案によるものだった。

いまで言う「付加価値」をつけるというわけだ。気がついてみると、三郎助は旺盛な事業家に変身していた。いまや沃度市場を三分するほどの実力者だ。下流を事業化することでもうけを倍増する――というのが、当時打ち出した事業方針だ。すなわち、かじめ焼きを止めて、下流製品の製造に専念することだ。三郎助が、そう考えたのは、日本のあちらこちらで、ケルプ作りが流行するようになり、叩き売りがはじまっていたからだ。ケルプの本場は房総だ。三郎助がケルプの本場・房総にケルプ精製工場建設を思い立つのは明治末のことだった。いちいち買い付けに出向いていたのは遅れを取ると判断したからだった。ところが、房総には思わぬ強敵が待ち受けていたのである。

房総の浜辺で三郎助は村人を口説いた。口説き上手に口説かれた村人たちはかじめ作りに励んだ。原料のケルプが十分に集まるようになった。精製工場の建設も順調だ。そこにとんでもないニュースが飛び込んできた。手配したはずのケルプが集まらないというのだった。いったいどういうことか。調べてみると、同業者が現れ、ケルプを高値で買い集めているというのだ。その男は、房総水産会社の森矗昶営業部長だという。後の昭和電工総師である、房総水産もケルプを買い集め、ケルプの精製事業を計画していたのだった。四角い顔で、実に人当たりのいい男だ。村人の口説き方も、にこやかで上手である。かじめの買い集めで、両者が正面衝突するのは、もはや避けられない情勢となっていた。

ワシの工場を譲りましょう

血で血を洗うというのはこういうビジネス戦争を言うのであろう。こうして始まるのが房総戦争とよばれるかじめ争奪だった。かじめは高値を呼ぶのも当然で、漁民や村人は喜んだが、たまらんのは精製業者である。三郎助は考えた。これでは両者とも自滅する。そこで三郎助は一つの決断をする。三郎助は千葉の房総水産を訪ねて森に面談を求めた。工場をあなたに譲りましょう――と、三郎助は切り出した。なぜかと森は聞いた。日本人同士でケンカをするなんてつまらん話だ、かじめの値をつり上げるだけで、この状態を続ければおたくもワシのところも潰れてしまう――三郎助は、そう応えた。もっともな話だ、巧みな説得である。森も他人を説得する術には長けていると自信を持っている。しかし、自分に優るとも劣らぬ男の登場に、感嘆した。そして闘いに勝利したと思った。

館山の精製工場は引き渡しましょう。しかし――と、三郎助は続ける。どうです、場所を変えましょうか、と森は言う。本音がわからぬ、酒を飲めば本音も出る――と森は考えた。話し合いは近くの料亭に移し続けられた。そこで三郎助は工場引き渡しの条件を提示する。工場を引き渡す評価の相当額を株券で相殺し、ついで房総水産の重役に鈴木側から派遣すること。その二つが条件だ。わかりました、と森は応える。房総水産側の全面勝利だ。しかし、三郎助には巧みな計算があった。すなわち、三郎助は房総水産を勝たせたように思わせておきながら、実際には何一つ損することなく、実利を手にするのである。口説き上手と言われる所以もあるのだが、そのことに森が気づくのはあとのことだ。

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