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第4回 「小平浪平――国産自主技術にこだわり続けた男(4)」■昭和電工のアンモニア計画に協力 小平が着目したのは発電部門だった。大型水力発電所計画にともなう長 距離送電計画が相次ぎ発表されたからだ。小平は先行投資を意欲的に進め たのである。しかし、経済は芳しくなかった。なお昭和恐慌が続いていた のだ。そこは政商鮎川とは異なる。製造業の内実は地味なのである。余剰 電力のもとでは発電機は売れない。10万坪もの広大な工業用地を取得し、 設備投資をしてみたものの、世間は不況の暗雲に覆われている。しかし、 明治のベンチャーは考えた。ある日、小平は昭和電工の森矗昶を訪ねた。 科学的方法で生産する硫安は膨大な電力を必要とすると聞いたからだ。お りから森矗昶は、電力を利用して硫安を生産する計画を構想していた。森 矗昶の構想は雄大だった。水を電気分解して水素と窒素に化合させ、アン モニアを作る反応漕2500基をつなげる壮大なプラントを構想していた のである。誰が考えても、ホラ話に聞こえたに違いない。 ■日立の軍需工場化 明治22年、福岡で生まれた倉田は、仙台高等工業(現東北大学)を卒 業し、久原鉱業に入社し、大正9年に日立製作所独立とともに移籍し、小 平と苦楽をともにしてきた男である。工場は軍事管制のもとにある。愚直 な小平では軍と衝突する恐れがあった。何しろ士官学校を出たばっかりの 若い将校が軍刀を引きつづり、工場内を闊歩し、工場幹部を顎でこき使う のである。当然ながら工場の各所で諍いが起こった。小平が正面に立てば、 全面衝突になる。何せ、軍のいうことはめちゃくちゃなのだから……。そ こで電線部長をしていた倉田が軍納部長に就任して責任を一身に背負い、 軍当局との折衝にあたった。太平洋戦争が勃発するにおよび、会社そのも のが軍需工場化し、従業員の多くも徴兵され、工場から姿を消していく。 そればかりか、幾多の空襲を受け、工場は灰燼にきす。小平浪平はきまじ めな技術者である。事態をなすすべもなく見守るだけだった。 ■遊び好きで知られた学生時代 小平は学生時代に『晃南日記』を書き残している。そこには、青年らし い大望を抱きつつも、「一畝の田、一歩の林、故山に帰臥し父老と相親し むは余が年来の宿望なりき。いまは早其心なきなり、否無きに非ず、其望 を達する前に、如何にして大々的事業を為さむとよくする念強くして、遂 に故山に帰るの期を想ふに及ばざるなり」と呻吟する姿があった。小平は 栃木県都郡の裕福な家庭に生まれている。しかし、彼が第一高等学校に入 学する直前、父惣八が事業に失敗し、家運が傾き、第一高等学校に在学中 だった兄儀平は退学を余儀なくされる。兄儀平が故郷に帰り、銀行に勤め るのと入れ替わりに、浪平は一高に入学する。浪平はテニスに興じ、ボー トに野球、旅行という具合で、決して勉強熱心な学生ではなかった。その ため、東大工学部に進学してから、写真に凝ったりして、落第している。 そんなことがあってか、一高以来書き付けてきた『晃南日記』を絶筆して いる。 小平は社会人になり、経験を通じて「技術の自立」を考え、それを自ら 創設した日立製作所という舞台で実践した。それを見事になし得た。公職 追放を受けて以来、小平は文字通り謹慎の日々を送り、好きなゴルフも絶 った。遊び好きで知られた学生時代を知る友人たちには驚きであった。昭 和26年6月、小平は公職追放解除を受ける。久しぶりに訪ねた本社工場 で出迎えた倉田主税は「社長に復帰して欲しい」と懇請した。しかし、そ れを柔らかく断り、ただ相談役だけは引き受けた。小平は倉田の案内で工 場を見て回った。敗戦の痛手から、工場はすっかり回復していた。倉田君、 よくやったね――と、小平は目を細め、倉田の手を握るのだった。そのと き、小平は「以和為貴」と染め抜いた手ぬぐいを全社員に配った。その年 の10月、明治のベンチャーは78歳の生涯に幕を閉じた。(完) |