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第3回 「小平浪平――国産自主技術にこだわり続けた男(3)」

■京浜地帯の復旧に全力を挙げよ!
 久原鉱業所の敷設工作工場からスタートを切った日立製作所は、こうし て独立を果たすのであるが、誰もが新会社日立製作所の社長に小平浪平が 就任するものと考えていた。しかし、予想に反し小平は社長就任を謝辞し、 自らは代表取締役専務に就任する。小平にすれば久原家には恩義がある。 その恩義のある久原家をさしおき、社長になることを潔としなかったので ある。明治人はあくまで義理堅く、小平自身が社長に就任するのは、久原 房之助の義弟鮎川義介が会長に就任して以降のことだ。しかし、経営環境 は厳しくなる。ヨーロッパでの第一次世界大戦が終結し、その反動不況が 日本を襲った。巷に失業者があふれ、労働争議が頻発するなど、世情は混 乱した。こうしたなか、久原鉱業の経営が危機に立たされ、ついに久原商 事が倒産する。銀行は日立を久原系列とみなしていた。しかし、幸いなこ とに原価主義経営をとっていた日立は逆に評価された。

 つまりデフレのおりのキャッシュ・フロー経営が評価されたのだ。いま でいえば「勝ち組」というわけだ。このとき小平は積極策に打って出る。 救済の意味を込め、久原系列の日本汽船笠原工場を買収し、他方では電気 機関車の製造分野に進出する。このころの技術革新は驚異的で不可能とい われた長距離送電が始まり、これにともない大型発電所の建設が動き出す。 小平はこうした動きをよくみていて、素早く大型発電の分野に乗り出す準 備を始める。こうしたさなか、関東大震災が首都を襲う。しかし、日立製 作所は茨城に生産拠点を持っていたため、僥倖というべきで、難を逃れた。 小平は震災復興の先頭に立ち働いた。社員に示した方針は「京浜地区の復 興に協力せよ」だった。小平の認識では京浜地帯は日本産業の心臓部。自 分の会社の利益よりも、心臓部の復旧に全力を挙げて、取り組めという指 示だ。こうした方針が顧客の信頼を得て、また新しい顧客をつかんだ。

■日産コンツェルンの傘下に
 日立製作所が小平や倉田の指示のもと、いわゆる耐久消費財の分野に進 出するのは関東大震災以後のことだ。発電機やモータなどの資本財生産も 重要だが、しかし、日立製作所の将来を考えるならば、家電製品は戦略商 品になりうると判断を下したのだ。こうして始めるのが扇風機や冷蔵庫の 生産であった。しかし第一次世界大戦の反動不況は長引き、関東大震災の 打撃を受けた日本経済に昭和の金融大恐慌が襲う。久原鉱業の経営はさら に悪化し、産銅事業の不振と久原商事の破綻で、ついに久原鉱業は久原家 の手を離れ、房之助の義弟鮎川義介の手で再建が図られることになる。房 之助自身は政界に転身し、衆議院議員となり、田中義一内閣の逓信大臣を 皮切りに、政友会幹事長・総裁、内閣参議などを歴任した。戦後、公職追 放が解除されたあと、日ソ・日中の国交回復促進国民会議議長に就任し、 東西貿易の促進に尽力したことはよく知られる。

 さて、久原財閥を掌握した鮎川義介は、房之助とは同郷山口県の出身。 東大機械工学を出て、東芝に一職工として入社したのは有名は逸話だ。そ の後、アメリカに渡り、可鍛鋳鉄の製造技術を学び、帰国した後に共立企 業を立ち上げ、その経営手腕を買われ、久原の経営を引き受けることにし たのだった。満州事変以後、鮎川は軍需景気に乗り、満州に事業を展開し つつ、日産自動車、日本産業、日立製作所を傘下におさめ、日産コンツェ ルンを形成する希代の事業家だ。日産コンツェルンの傘下に日立製作所が 入るのは、昭和初めのことだ。それにしても、見事なのは鮎川の企業再建 だった。まず鮎川は膨大な債務を整理し、日産コンツェルン本社を「日本 産業」と名称を変え、改めて株式を公開し資金調達を図り、鈴木商店など の新興財閥が消滅を余儀なくされるなか、久原財閥を基盤とする日産コン ツェルンは見事に生き抜いていくのである。(つづく)