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第5回 「森下博――広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男(5)」

■危機に際してみせた行動力
 第15銀行は宮内庁の御用達をつとめる銀行である。森下にすれば、そ の第15銀行が倒産に追い込まれるなど、想像のうちになかったに違いな い。銀行との取引が中断されれば資金繰りに窮する。取引先に対する支払 いも、従業員の賃金も払えない。森下には創業以来のピンチだった。しか し、広島から徒手空拳で出てきた男は、窮してなお屈せぬ精神の持ち主だ った。第15銀行の閉鎖を耳にすると、森下はすぐに対策を講じた。まず は冗費の削減だ。ついで積極策に打って出ること、新しく銀行取引を始め ることの、3つの方針を決めたのである。まず北久太郎町にあった本社営 業所を、玉堀町に移転せしめ、経費の削減を図った。偉いのは従業員を馘 首しなかったことだ。しかし、経費はできるだけ切りつめた。従業員も森 下の要請によく応えて協力した。家族主義のたまものだ。

 続いて森下は積極策に打って出た。赤小粒仁丹を新たに販売することを 決め、これとあわせて大々的な宣伝攻勢に出たのであった。誰もが森下の 行動に驚いた。いずこも身を縮めて嵐が去るのを待っていた。しかし、こ ういうときだから、森下は積極策を採ったのである。森下は強運な男で、 この赤小粒仁丹があたった。さらに森下は海外事業でも積極策に打って出 る。海外においても大宣伝を開始する。それがブーメランのごとく国内効 果を呼んだ。森下は元来輸出による国益増進を理想とする男であり、それ がため海外進出は彼の信念として、国内での売れ行き不振を、海外営業の 稼ぎでカバーしたのである。これと平行して森下は銀行取引を開始するた め奔走する。森下の危機対応を見て、その経営手腕を評価してのことであ ろう。第34銀行(後の三和銀行)と第12銀行が取引に応じ、こうして 森下は昭和大恐慌を見事に乗り切るのであった。

■現代の経営者が失った企業家精神
 森下博は他人の言葉によく耳を貸した、と先に書いた。そして「青年重 役会議」を組織化して、社内からアイデアを募り、これを「金言広告」「 昭和の常識広告」「電柱町名広告」などに活かし、森下仁丹の広告宣伝に 努めた。森下が社員一同に強く要請したのはやはり一人ひとりが広告宣伝 部員になる、その心構えだった。その結果、森下仁丹は製薬会社と呼ぶよ りは、一大広告会社の体をなし得たのである。森下博は、それを少しも恥 じることなく、それこそが社是でいう「社会貢献」であると胸を張った。 それはひとつの哲学といっていい。しかし、森下は剛胆な人物でもあった。 創業まもなく森下は、新商品におい袋「金鵄麝香」の宣伝広告のため、新 聞の一面を買い取り、全面広告を出した。これは勇気のいる決断だ。そも そもが「金鵄麝香」なる商品が、売れるかどうかもはっきりしなかったの だから……。

 広告は真剣勝負であるというのは森下博の口癖であった。だから広告だ けは、最初から最後まで、文字の一字一句まで、生涯を通じて、いかなる 些細なことでも、他人に任せるようなことはしなかった。森下が類い希な アイデアマンであることも書いた。しかし、他と異なるのは素早くアイデ アを実行に移す行動力があったことだ。昭和初期の金融大恐慌に際しても、 森下は持ち前の行動力で、危機を乗り切った。森下は多くの明治人経営者 のように財閥形成を望まなかった。もっぱら「1人1業」を本義として、 ただ人びとに喜ばれることを願いつつ、商売に励んだ。森下は現在のサラ リーマン経営者には望むべきもないベンチャー精神を持っていた。森下が 逝くのは昭和18年3月のことである。私は18年に生まれた。城山三郎 とは異なる視点から森下博伝を書いてみたいと思う。(完)

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