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第2回 「森下博――広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男(2)」

■アイデアを「青年重役会議」で徴募
 この「広告益世」の理念が着実に実現されていった、その真骨頂とも言 えるのが大正3年にスタートした「金言広告」である。金言とは「天は自 ら助くる者を助く」「時を空費するは無情の奢侈なり」など古今東西の格 言などである。これらを厳選した5000種類の金言を、新聞広告をはじ めとして、まず電柱広告、看板、紙容器などあらゆる媒体に入れたのであ る。森下の「金言広告」は「新しい時代の広告として一世を風靡し、各方 面から称賛を博し、学校などから多くの感謝状が寄せられた」と森下仁丹 歴史博物館のホームページに誇らしげに書いている。勢いをつけ、本社に 輸出部を新設し、海外に雄飛するのは明治40年のことだ。森下は決断を 下すと実行も早かった。輸出部を新設すると、仁丹委託販売を中国全土の 郵便代弁処、つまり日本で言う特定郵便局全国4000カ所に仁丹製品販 売を委嘱して中国進出の第一歩を記すのであった。

 森下は聞き上手であった。この聞き上手が社内で組織化されたのが、後 の「青年重役会議」である。いまでいうブレーンストーミングのことだが、 若手社員を中心として社内外から人を集め、議論する場が「青年重役会議」 というわけだ。社内の地位を問わず、有用と判断されれば、そのアイデア は商品化される。こうして新たな独創的な提案が次々と採用されて、その 結果が新商品を生み出すという仕掛けだ。ときにはつまらぬ提案もあろう けれど、それをにこにこしながら森下は聞いているのである。同時に森下 は、大衆が何を望んでいるか、その望みをかなえるには、どうすればよい かを常に考えていた。要するにマーケティングのことである。マスコミを 活用し、そこで大々的な宣伝を行う必要を感じたのも、そうした考え方か らだった。それは同時に、我が国のマスコミの勃興期とも重なり合う商品 販売のひとつの手法として確立されたものでもある。

■「八髭の大礼服」に込められた意味
 日本におけるマスメディアは、西南戦争を契機に爆破的な伸びを示し、 戦争はニュースを求める大衆のなかへと浸透していく。明治初期、義務教 育が行われるようになったことも国民の識字率を高め、新聞や雑誌などマ スメディアの発展を促した。この動きを、森下はじっくりと観察し、森下 仁丹の広告宣伝における独自性を確立するのであった。森下は創業にあた り「原料精選を生命として、優良商品の製造供給を進みて、さらに外貨の 獲得を実現し、薫化益世を使命とする」と宣言したことにも、その考えは 現れている。森下は明治末から大正初めにかけ、内服美容材「肉体美白玩」 、梅毒新剤「減毒」、懐中薬「仁丹」など次々と新商品を発表している。 広告をいつ打つのか、それは決まって建国記念日だった。広告効果が最も 高いのが祝祭日であることを、森下は知っていたのである。新商品発表の 日を見ると、なるほど昔紀元節といわれた建国記念日ばかりだ。

 モデルが誰であるか、明治の人びとの間で議論を呼んだ「八髭の大礼服」 にも、森下は細かな計算をしていた。大礼服着用の姿は当時、国民の立身 の未来像を示すものでもあった。当然ながら大礼服は宮中とのつながりを 暗示し、宮中次席を上がることは、立身出世のシンボルでもある。それを 仁丹の商標にしたのは森下の非凡ならざるところだ。さらにいえば、森下 の傑出していることは、この商標の研究を絶えず怠らなかったことだ。先 の森下仁丹歴史博物館のホームページに、仁丹のシンボルマーク「八髭大 礼服」が掲載されている。よくよく観察してみると、なるほど、時代とと もに、それが変化しているのがわかる。宣伝広告は時代とともに、その要 求は変転するものだ。森下は時代の持つ要求を鋭敏に把握していた。ちな みに、大礼服にJINTANのローマ字を入れるのは、大正5年のことで ある。なお、現在の大礼服には一切の文字は入っていない。(つづく)

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