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第3回 「根津嘉一郎――鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(3)」

■執念のビール30年戦争
 しかし、すべての事業が順調であったわけではない。苦戦を強いられた 事業もある。例えば、ビール醸造の経営では、はかばかしく進捗しない状 況を経験しなければならなかった。ことの起こりは明治39年、三井系の エビス麦酒の馬越恭平が他のビール会社の吸収合併を策したことから始ま った。おりから嘉一郎は知人に頼まれ、丸三麦酒という小さなビール会社 の社長を引き受けていた。丁稚からたたき上げ、三井物産で常務理事を歴 任した馬越は自ら大日本麦酒を創設し、このとき社長の職にあった。その 馬越をライバル視した嘉一郎は猛然と戦いを挑む。明治のベンチャーは戦 闘的なのだ。両者は事業上の対立だけでなく、ついには感情的な対立に発 展した。この争いは「家の競争となり、骨董品の競争となり、茶会の競争 になった」と先の評伝作家は書いている。嘉一郎という男は、直線的で曲 線的に動けぬのである。往事の経済人は嘉一郎のやり方に眉をひそめたも のだ。

 幾人か調停に立ったようだが、ともあれ嘉一郎は一直線に進む。世に言 う「ビール30年戦争」は、大正10年に至り、三ツ矢サイダーの帝国鉱 泉とその姉妹会社である日本製缶が加富登麦酒(旧丸三)に合併を申し込 み、これを嘉一郎が応じ、新たに日本麦酒鉱泉を発足させたことで白熱化 する。同社は馬越の大日本麦酒との競争においてヨーロッパに学んだ製造 法を改良し、景品付きの販売をやるなどいくらか優位に回った。その後、 昭和8年に至って両社の合併話が持ち上がり、合併交渉のさなかに馬越恭 平が逝く。馬越が死去したことで合併交渉に弾みがつき、ついに「ビール 30年戦争」に終止符を打ち、ようやく合併がなった。「馬越も死んだか らな……」と嘉一郎自身も経営から身を引く。やはり馬越恭平あっての「 ビール30年戦争」であったのであろう。それにしても馬越との競争を、 30年も続けたとは、やはり嘉一郎という人物の性格を抜きに語れぬ物語 だ。

■電力事業から撤退
 物語は昭和初期にさかのぼる。このころの嘉一郎は東上線を東武鉄道の 傘下に収め、他方では大日本麦酒との血みどろのシェア争いを演じながら 着実に地歩を固め、英国のパブリックスクールに範をとった7年制高等学 校の武蔵高校(現在の武蔵大学)を創設し、さらに徳富蘇峰の「国民新聞」 を買収して、文化事業に乗り出すなど、経済人としては絶頂期にあった。 もはや甲州財閥の一角を占めるには、事業は大きくなりすぎ、嘉一郎自身 も東武鉄道を拠点にした「根津財閥」の形成を意識し始めていたようだ。 しかし、戦闘精神は相変わらず旺盛で、嘉一郎は「東電騒動」に巻き込ま れる。騒動の発端は役員派遣だった。おりから東京電灯は資金繰り(社債 発行)のため、銀行から役員を迎え入れることになり、その調整を嘉一郎 が任されていた。東京電灯は三菱、三井、安田の寄り合い所帯で個人の出 資者は嘉一郎ただ一人。打ち合わせの席上で若尾副社長が常務を一人推挙 して欲しいと提案したことが財閥側の思惑を呼び、それが「東電騒動」の 発端となった。

 敵方は三井系の藤原銀次郎。一癖も二癖もある男だ。愚直一直線の嘉一 郎の失言を捉えて、株主に対する陳謝を迫った。嘉一郎が「財閥の雇われ 役員が何を言う」と発言したのを問題にしたのだった。藤原は「発言を取 り消せ!」と迫ったのである。たわいのないことだが、こうなると、嘉一 郎も黙ってはいない。株主総会の席で嘉一郎は財閥系の役員を激しくやり こめ、ついには財閥系役員がいっせいに引き上げてしまった。その責任を 取り嘉一郎は辞表を提出し、所有していた東電株を売却し、他方では東武 鉄道が購入していた電力を、松永安左エ門の東京電力に切り替え、それで も気持ちがおさまらなかったとみえて、ことの顛末を「国民新聞」に発表 する。理屈ではなく感情がもたらす反応だ。嘉一郎というのは、そういう 性分の男なのだ。日本製缶にあって常務として嘉一郎のもとで働いた山本 為三郎は「他人に言わせると、根津さんは手段をえらばないんだと誤解さ れることがある」と語っている。ともあれ、嘉一郎が貴族院に勅撰される のは大正15年だ。(つづく)