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第2回 「根津嘉一郎――鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(2)」

■東武鉄道の再建に取り組む
 すべてが順調であったわけではない。手持ち資金は限られ、しかも株は 初めての経験である。多くの借金を抱え苦境に立たされたこともあった。 しかし、これを乗り切り、嘉一郎はその資産を固めた。嘉一郎は若尾と連 合を組み、この間にも東京電灯株を、徐々に買い占めていく。若尾・根津 連合(往事の人たちは甲州財閥連合と呼ぶ)は、明治29年についに東京 電灯の経営権を手中に収める。経営陣も刷新され、若尾の番頭格で、当時 第十国立銀行頭取を務めていた佐竹作太郎が社長に就任、以後、40年近 く社長を務める。他方、東京電灯の買い占めで参謀格として活躍した嘉一 郎は監査役に就任し、ここで初めて電力業界への足がかりを得る。しかし、 甲州財閥に対する風当たりは強かった。というのも嘉一郎たちの行動が「 乗っ取り」とみなされたからだ。いまで言えばM&Aあるいは企業買収な のだが、 荒々しいやり方は好まれなかったのである。

 このころになると、嘉一郎は政治に関心を失い、事業欲に燃えるように なる。若尾の教えを忠実に守り、鉄道事業に乗り出す。嘉一郎の回顧録『 世渡りの体験談』によれば「自ら渾身の力を尽くした」と言っている東武 鉄道との関わりは「たしか明治32年ごろから営業を開始した。そして処 女配当は7分2厘であったが、その後6分になり、5分5厘となり、つい に無配当になり、会社騒動が惹起したのである」「このような難破しかけ た会社の社長を引き受けた」ことから始まると述べている。要するに東京 電灯での経営再建の手腕を見込まれての社長の就任だった。東京電灯で培 った経営再建のノウハウを活かし、経費削減とコストの低減に務め、徹底 して冗費の削減を行った。他方では遅滞していた取引先への支払いを優先 させ、信用醸成を図った。こうして明治38年には復配を実現し、根津は 第一次大戦の影響で着工が遅れていた「日光線」を企図するのであった。

■社内外の反対を制し日光線を開通
 都心から日光まで電車を走らせるのは嘉一郎の夢であった。しかし、地 元日光の人たちは反対であった。日帰りされたのでは旅館業が閑古鳥がな くと反対したのだ。反対派の急先鋒は東照宮宮司の額賀大直だった。その 額賀を相手に「ご意見はごもっとも。しかしあなたは同じ人数を考えてい るからで、私が鉄道を引く以上は2倍、3倍のお客を持ってきてみせます」 と説いた。そればかりか、社内からも反対の声が上がった。理由は「建設 資金の調達」問題だった。その反対論を制して、着工にこぎ着けることが できたのは日露戦争後の株式ブームで得た潤沢の資金を持っていたからだ。 はじめ蒸気機関車だった東武鉄道は大正12年に浅草−西新井間を電化、 こうして日光線の基礎を作るのであった。往事、日光を訪れる参拝客は3 0万余りだった。果たせるかな、額賀宮司を相手に豪語したように浅草− 日光線が開通をしてみると、参拝客は100万に増えたのである。

 嘉一郎が手がけた鉄道事業はもとより東武鉄道だけではない。明治から 大正にかけては鉄道会社が乱立していた。そのとりまとめに動いたのが嘉 一郎だ。都電の前身である「東京鉄道」が、明治15年にまず新橋−日本 橋間に鉄道馬車を開通。鉄道馬車が電車となるのは明治36年のことだ。 これより1ヶ月遅れで「東京市街鉄道」が有楽町−神田橋間に開通し、同 じ年には郵船会社系の「東京電気鉄道」が外壕線を申請するなど、首都に は三つの鉄道会社が乱立していた。これでは二重投資になる。これを統合 すれば経費節減になり、乗客の利便にかなう。嘉一郎は統合に動き、とき の東京府知事や財界の重鎮渋澤栄一らに働きかけ、ついに三社統合を実現 し、新たに発足した東京鉄道の取締役に就任するのは明治38年のことで あった。以後、嘉一郎が経営に関与した鉄道会社は全国24社におよび、 経営再建に手腕を発揮するなど鉄道王の名に恥じず、大きな仕事をしてい る。(つづく)