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第6回 「五島慶太――強盗と呼ばれた経済人(6)」

■経済界重鎮門野重九郎との対立
 すなわち、五島慶太は鉄道省を去り、武蔵電鉄に入社した大正9年に、 武蔵電鉄が都心部との連結を行うため、渋谷−有楽町間の地下鉄計画を 申請していた。しかし、東京市は申請を認めず、計画は宙に浮いた格好 になっていた。その後、東京市自身が公営地下鉄を企図し、計画を進め ていたが、資金難に直面し、これまた計画は宙に浮いていた。一方経済 界を中心に都心部に地下鉄を建設する機運が盛り上がり、昭和9年3月、 東京高速鉄道が創設された。牛塚と不可思議な関係を結ぶのは、この時 期のことだ。五島が会社設立と同時に常務取締役に就任するのは、前述 した通りだ。警視庁が二人の関係を怪しいとにらんだのは、こうした事 情からだ。

 当時の社長は門野重九郎。門野は志摩鳥羽藩の出で、東京帝大工学部 を出て、欧米に留学ののち、合名会社大倉組に入社し、ロンドン支店長 や副頭取などを歴任し、日本商工会議所会頭の職にあった経済界の重鎮 である。慶応3年の生まれだから、五島にすれば15年の先輩にあたる。 その門野と五島は地下鉄路線の建設をめぐり対立する。五島が渋谷から 虎ノ門を経て、新橋を結ぶ路線を主張したのに対し、門野は渋谷から虎 ノ門を経由し東京駅に結ぶ路線を主張した。五島は浅草−渋谷を結ばな ければ、首都圏の地下鉄は意味をなさないと考えたのだった。しかし、 門野は猛然と反対した。

■世間の評判を落とす中での弁明
 五島の計画が説得力に欠くのは、浅草−上野間を結ぶ地下鉄が別会社 となっているからだ。これを吸収合併してしまえばすべて解決だ。五島 は密かに地下鉄株を買い集める。彼の手元に45万株が集まった。地下 鉄業界の重鎮・早川徳次に勝負を挑む。驚いたのは早川だ。欧米での勉 学を通じ、早川は都市には「地下鉄が一番。地上では都市の発展を阻害 する」という信念から、日本で初めて上野−浅草に地下鉄を通した男だ。 しかし、資本主義は株所有の寡占が民主主義の原理だ。過半を握った人 間が会社の支配権を持つというルールだ。五島は過半の株を握り、早川 に退陣を迫った。そのルールには勝てない。五島慶太はついに早川徳次 の追い出しに成功するのである。

 それで五島慶太は世間の評判を落とした。マスコミも叩いた。それで も他人の会社を乗っ取り、傲慢にも財界先輩の反対を押し切って、つい には渋谷−浅草間の相互乗り入れを実現した。五島も後ろめたさがあっ たのだろうか、自伝『事業を生かす人』の中で、合併や買収の意図を、 以下のように書いている。すなわち、財界に覇をなそうと思えば、いろ いろな会社を合併し、ボロ会社を引き受けて、それを再建する。そうや ってよくすることによって成功するのであり、覇をなすのだ−−と。

■東条内閣の運輸逓信大臣に就任
 昭和19年、五島慶太は請われて東条内閣の運輸逓信大臣に就任する。 事業家としての五島は「強盗」と呼ばれようが、才覚を示した。しかし、 政治家としての五島は、まるでだめだった。第一死体の東条内閣である。 誰の目にも敗戦は明らかだった。天皇の側近たちが密かに和平に向け、 動き出していた。そんな時勢での東条内閣であり、東条内閣の運輸逓信 大臣だ。巨大コンツェルンを築き上げた男には、名誉が欲しかったので あろう。実利を得れば、次が名誉――というのが世間の相場だ。現代の 企業買収の英雄・孫正義も政府の審議会に名前を連ねるなど、実利の次 に求めたのは名誉だ。しかし、五島慶太の運輸逓信大臣の在職期間は、 わずか半年。その前年に五島は、不幸なことに息子進を戦火で失ってい る。

 終戦の詔勅を、五島慶太は東急本社で聞いた。戦争では大事なものを 失った。息子進を失ったのは最大の痛手であった。見渡せば、東京は焼 け野原だ。東京渋谷の高台に立てば皇居の方角までも見渡すことができ た。しかし、五島は大東急コンツェルンの最高指揮官である。本社も鉄 道も、戦災で被害を受けている。とりあえずは、電車をまともに動かし 復旧を急ぐことだ。復員してくる社員の受け入れもある。茫然自失の日 々がすぎると、五島は猛然と動き出した。終戦のその年、五島は63歳 になっていた。(つづく)