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第5回 「五島慶太――強盗と呼ばれた経済人(5)」

■残された疑惑
 しかし、強引な商売は恨みを買う。昭和9年10月、東京市長選が行わ れた。立候補したのは、五島慶太の盟友牛塚虎太郎だ。その牛塚との間で 贈収賄の嫌疑がかかり、警視庁に検挙されたのだった。牛塚は富山県の出 身で、東京帝大を卒業後、内閣統計局長や岩手県知事などを歴任したあと、 東京市長を務めた男だ。事件は一通の投書が警視庁に届いたときから始ま った。いまでいう「内部告発」だが、投書には「目蒲電鉄が牛塚候補の選 挙資金を出した」と事実関係を詳細に告発している。おかげで五島慶太は 半年もの間留置所に放り込まれるはめになるのだ。

 よほど留置所暮らしが辛かったのか、彼は自伝で「まさに地獄の日々で ある」と語っている。それでもがんばりを見せた。後に唐沢俊樹が『五島 慶太君を追想する』に「取り調べの検事が、あんな酷い男はいない。傲慢 無礼で取調官の権威など全然認めないと話していた」――と、書いている。 ちなみに、唐沢俊樹は同郷長野の人で、五島とは8歳違いで、東京帝大卒 の内務官僚。五島とは同郷同窓の縁でもつき合いであったらしい。追悼集 であり、郷里の先輩を悪く書くはずもなかろう。それはともかく、牛塚は 東京市長として鉄道建設や宅地開発など、運輸省とともに関係業者に絶大 な権限を握っていた。事業家と巨大な許認可の権限を握る政治家との関係 はいまも昔も変わらぬものだ。

■名門三越の乗っ取り工作
 日本経済新聞『私の履歴書』から、昭和はじめから昭和10年代にかけ ての役職を拾ってみると、実に多彩な事業展開を行っていたことがわかる。 私財を投じ、東横学園を設立したのも、この時期。昭和9年東横百貨店開 業、同11年玉川電鉄買収、東京横浜電鉄ならびに目蒲電鉄取締役会長就 任、同年東京高速鉄道を創設し、常務に就任。同13年東横電鉄が玉川電 鉄を合併。後の東映・東横映画を設立し、取締役社長に就任。同14年湘 南電鉄、京浜電鉄、小田急、富士山麗電鉄などの取締役に就任。以後、上 記の会社を東急傘下におさめるという具合だ。それらのいずれもが強引な 手法による買収合併だ。そのために世間の人びとは「五島」を「強盗」に 置き換えて「強盗慶太」と呼んだものだった。

 しかし、第一生命の矢野恒太や東宝の渋沢秀雄あるいは阪急の小林一三 のように都心部の一等地に拠点を持つのは、五島慶太のかねての夢だった。 渋谷に東横百貨店を開業したのは、その足がかりにするためだった。狙い を定めたのが三越と地下鉄の乗っ取りだ。当時の東横はいまのスーパーみ たいなもので、高級品はみな白木屋や三越だ。まず三越の株式を買い占め、 三越との合併を図る――というのが、五島が立てた作戦だ。手持ちの株に 加えて人手を通じ取得した株を懐に納め、、昭和13年の春、三越乗っ取 りに動き出したのである。当時の三越の発行株式額は、約3000万。五 島の持ち株は6分の1ほどになっていた。商法を調べてみる。わかったこ とは株主総会を招集する権利のあることだ。

■三越乗っ取りに失敗
 これならやれる――商法を研究し、五島慶太は確信した。しかし、三越 は江戸期以来の名門である。五島慶太の三越乗っ取り計画を、三井財閥の 首脳陣は「三井財閥の危機」ととらえて動き出すのに、時間は要しなかっ た。株式買収は銀行から借り入れが原資。それを押さえ込むという作戦に 出た。三井銀行の今井利喜三郎は三菱財閥の加藤武雄に、五島慶太に資金 を提供しないように働きかける。三菱・三井の両財閥を相手の喧嘩だ。五 島慶太は周囲に大洞を吹き、闘う意志を鮮明にした。しかし、資金繰りに 窮する。三井銀行からの融資が途絶えるのは、想定のうちにあったが、三 菱銀行までが融資をストップさせた。これには参った。こうした五島慶太 の三越乗っ取り計画は挫折するのだった。

 五島慶太は懲りない男だ。次に狙ったのは、東京地下鉄道会社だった。 同社の創業者は早川徳次という山梨県出身の男だった。早大を卒業し、五 島と同様に鉄道院勤務の後高野登山鉄道支配人などを歴任し、大正9年に 「東京地下鉄道」を創設し、昭和2年に上野と浅草区間を開通させた、わ が国では地下鉄草分けの人物だ。明治14年の生まれだから五島より1年 先輩だ。その草分けの人物を追い出し、経営権を奪取したのだから、「強 盗慶太」面目若如というわけだ。その辣腕ぶりに、世間は五島を非難した。 しかし、五島慶太のために弁明しておくと、この乗っ取り事件の背景には、 深刻な経営上の対立があり、その延長線上での経営権奪取だったのである。(つづく)