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第1回 「五島慶太――強盗と呼ばれた経済人(1)」

 五島慶太は信州上田在郷の人である。激しい気性と乱暴な商売ぶりから、 経済人の仲間内から「強盗慶太」と恐れられた。強盗とは「五島」との語 呂合わせだが、五島と商売でつき合うと、丸裸にされると恐れられた。五 島に関しては多くの評伝があり、小説にも書かれている。いずれも、あま りよくは書かれていない。まあ、「強盗」などと呼ばれたのだから、それ も当然であろう。ともかく商売上での五島慶太は、そりゃあ、凄まじい人 物だった。しかし、すべてえげつない商売をしていたかというとそうでは ない。陽性で、先見性もあった。鉄道事業にかけては「西の小林一三、東 の五島慶太」と並び称されて、近代日本資本主義が形成される過程を、大 急ぎで駆け抜けた人物だ。

■手のつけられない腕白小僧
 年賦をひもといてみた。明治15年4月、長野県小郡郡青木村に父小林 菊右衛門母寿えの次男として生まれたとある。生家は近郷でも名の知れた 豪農で、父菊右衛門は商売上手であったようで、製糸事業などを営んでい た。五島が生まれた時代というのは、明治の内戦を終えて、西欧列強に追 いつき、追い越せ――と、熱気に溢れていて、人びとは上昇志向を強めた 時代だ。父母には、さしたる教養はなかったという。しかし、菊右衛門は 熱心な法華経の信者であった。五島慶太の言葉を借りれば「南無妙法蓮華 経を、日蓮大上人の曼陀羅の前で五百ぺんも千べんも唱える」ような人物 であった。

 さて、幼年時代の五島慶太は「負けず嫌い」のガキ大将であった。しか し、勉強だけはできたようだ。いつも意気軒昂で、小学校の行き帰りは大 手ふるって歩き、村人は五島慶太の姿を見ると、大急ぎで逃げたそうだ。 手のつけられない腕白坊主だった。青木村小学校の尋常科4年を卒業する と、隣村の浦里小学校の高等科に進む。高等科を二年で修了して、上田中 学に進学するのは明治27年のことだ。実家から三里の山道を超えて、上 田の中学まで通うことになった。上田中学を三年で終了すると、五島は松 本中学に進む。松本中学を卒業すると郷里の木村小学校で一年ほど代用教 員を勤めたあと、代用教員の傍ら受験勉強を勤しみ、東京高等師範に入学 するのは明治35年。

■立身を夢見て東大を目指す
 当時の高等師範は官費支給があったので、五島のような貧乏青年には、 またとない勉学の機会を与えたのだった。高等師範時代の校長は、講道館 の創設者と知られる、あの有名な嘉納治五郎だった。五島は高等師範を卒 業すると、三重県の四日市商業学校に英語教師として赴任する。この年、 日本は日露戦争で勝利した。日清・日露の両戦争で勝利し、欧米列強の仲 間入りを果たした日本は、破竹の勢いで近代化を進めていた。しかし、五 島は四日市の英語教師で終わるような男ではない。日本の明日を考え五島 は燃えていた。立身を図るには軍人か官僚。軍人になるには、年を取りす ぎていた。やはり官途である。そして結論を出した。官途なら東大だ。こ うして上級学校への進学を決めたのである。

 官途を立身の手段と考えた五島慶太が四日市商業学校を辞し、東京帝大 本科に入学するのは明治39年のときである。数えで25歳。学齢期はと っくに過ぎていて、遅すぎたきらいはあるが、野心満々の五島慶太には、 それが最適コースに思えたのだった。大学では法科を専攻する。役人にな るには法科が必須と考えたのは、法学部出身者が優遇されることを知って いたからだ。そして高等文官の道を歩むことだ。ただし、学費は自分で稼 がなければならぬ。五島は東大在学中、家庭教師として学費を得た。この 家庭教師をしたことがのちに実業の世界に羽ばたく上で大事な人脈を形成 することになる。(つづく)