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第4回「野口遵――特許をビジネスモデルにした最初の日本人(4)」

★政商となった技術者・野口遵
 宇垣大将を口説き落とし、野口は朝鮮銀行から4000万円の融資を引 き出すことに成功する。軍人でありながら、一時は宰相との声も上がった 宇垣と野口の関係。ちなみに往事の朝鮮銀行の総貸出額は1億2000万 円。朝鮮銀行は朝鮮窒素に対し、自己融資の実に三分の一をつぎ込んだわ けだ。いまならスキャンダルだ。しかし、戦時下のもとでは軍部の威光を 恐れ、誰も非難の声は上げなかった。こうして野口は、朝鮮に巨大コンツ ェルン建設の実現に向け、大きく一歩を踏み出したのである。

 このときの野口遵は政商となっていた。彼が朝鮮で展開した事業を拾っ ていくと、その多様さに驚かされる。以下、社史からピックアップする。 昭和8年5月、資本金2000万円で長津水力発電を設立。ここで日窒は 14万kwの電力を確保し、硫安生産を始める。昭和11年11月、長津 水力発電を一気に7000万円増資、第二発電所以下の全発電所を完工せ しめ、世界一を誇るソヴィエト連邦・ドニエプル発電所(31万kw)を 凌駕する32万kwの長津江系発電所を完工させるのであった。

 記録は続く。昭和12年、日本は国民総動員体制のもと、戦時下に突入 したこの時期に朝鮮での野口は、100万kwの発電を目指す朝満合併の 鴨緑江水力発電計画をぶち上げるのだった。資本金8000万円のうち、 野口自身は2000万円を個人で引き受け、ダム建設の陣頭に立つ。この 計画では7つのダムが建設され、鴨緑江をそれに連結させて流すという大 工事を完工し、これが朝鮮戦争のときに有名になった「水豊ダム」の建設 の一部である。米軍が幾度も爆撃を試みたが、堤防を破ることのできなか ったダムとして知られる。ついでながら、工事施工を引き受けたのは日本 工営である。

★敗戦で消えた日窒コンツェルン
 ダムが建設された下流には、日窒を中心とする企業が次々と工場が建設 される。以下に社史を引用する。昭和9年12月に日本アルミ金属、同年 10月に朝鮮石炭工業、昭和11年に朝鮮窒素火薬、大豆化学工業、朝鮮 石油など朝鮮の重工業化は着々と進んでいったのである。この時期、野口 は満鉄中央試験所と提携している。大豆を原料とする化学工業を興したの も、満鉄中央試験所の研究成果を取り入れてのことである。こうして朝鮮 における野口の夢――日窒コンツェルンは、その全容を著すのであった。

 その意味で野口遵は数少ない成功者である。当時の規模で数十億円の富 を築き上げた日窒と野口遵。しかも満州事変から数えれば、わずか6年の 期間で作り上げた帝国であったという事実を考えれば、それが戦時体制の もとであったとしても、大変な事業家であったことが理解できよう。しか し、日窒コンツェルンが朝鮮に築き上げた全資産は、敗戦とともに陽炎の ように消えてしまう。いまでは、日窒コンツェルンの存在すら忘れさられ ている。わずかに野口遵の事績を顕彰するのは、旭化成延岡工場に残る碑 のみだ。

★三十年の夢から覚めて初日の出
 日窒コンツェルンを形成した野口遵という男は、確かに卓越した企業指 導者であり、天才肌の技術者だった。朝鮮での事業では、そのスケールの 大きさから、野口は畏敬の念をこめ「半島の事業王」と尊称された。日窒 コンツェルンが確立した昭和15年。野口遵はソウルで脳溢血に倒れ、以 後は事業から手を引き、翌16年の正月に近親者や側近たちが集まった席 で、「三十年の夢から覚めて初日の出」などと俳句を詠じてみせた。30 年の夢とは何であったのか、野口はやがてくる敗戦を予期していたのであ ろうか。聞きようによっては、野口は自らの事業を自らが全否定している ようにも聞こえる。

 晩年の野口は寂しかった。全財産3000万円を惜しげもなく寄付し、 敗戦をまたずに野口は昭和19年1月、72歳で死去した。ついでながら、 昭和17年当時、日窒コンツェルンは直系子会社30社、払い込み資本金 は3億5000万円に達した。しかしながら敗戦ともに、主要な拠点であ った朝鮮での資産を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずして実質日窒コ ンツェルンは瓦解してしまうのであった。野口遵が事業家として生きた人 生は約30余年である。それが長いか短いか、まさしく夢から覚めたとき、 彼が残したものは幻であったことに気づいたのであろう。自伝や評伝を読 んでいて、気がつくことがひとつある。野口が楽しく語るのは、仙台で友 人藤山常一とやったカーバイト事業化やドイツで世話になったケイラーや ヘルマンのことである。

 野口遵は家が貧しく、有力な親戚縁者もなく、事業の道は一人で切り開 かねばならなかった。大学を卒業し、シーメンスに入ったのちも、より高 い給料を求めて職を転々とした。だが、決して諦めない精神の持ち主であ った。多くの評伝作家は、野口の朝鮮での事業をほめる。確かに短期間で やり遂げた事業は壮大である。しかし、彼の資料を読んでいて感銘を受け るのは、特許の有用性に気づき単身ヨーロッパに渡り、交渉をする野口の 姿だ。藤山といっしょにカーバイト事業を手がけた経験があるとはいえ、 空中の窒素を取り出す事業は、やはり未知の分野だ。その意味で野口の原 点は宮崎延岡にある。地元の人たちは野口を「地元の人」と信じている。(完)