HOME > 起業する > 明治・大正・昭和のベンチャーたち
![]() |
第2回「野口遵――特許をビジネスモデルにした最初の日本人(2)」
★現場で積み上げられていく製造技術
しかし、思えば大きいのはヨーロッパと日本と間の科学技術の格差であ った。工業化には原理の発明発見は必要ではないかもしれない。しかし、 それを受け入れられる技術と環境がなければ、ヨーロッパ技術の移植は不 可能である。ともかく野口遵は、当時では珍しい世界的なレベルの水準を 持つ技術者であり、かつ計画を大胆に実行に移す、経営者であった。この 二つの能力を持つ実業家は見つからない。野口が終生のライバルと意識し ていた昭和肥料の総師・森矗昶(もりのぶてる)ぐらいなものかもしれな い。森矗昶は独学ではあったが、科学技術に通じ、森コンツェルンの基盤 である昭和肥料を創立した人物だ。 さて、野口遵を実業家としてみたとき、その嬌姿は朝鮮での事業に求め られる。これより先、大正2年9月、第一世界大戦が勃発する。爆薬の原 料となる硫安、チリ硝石の需要が急増し、硫安は驚異的に暴騰する。失礼 な言い方をすれば、日窒コンツェルンの基盤ができたのは、戦争のおかげ なのである。依然窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は 伸びず、折からの日露戦争の反動不況から、資金繰りにつまづき、創業間 もない窒素肥料製造会社は経営危機に直面していたのである。 ★第一次世界大戦の勃発で14割りの配当
野口は余剰資金を新規事業に投じることも忘れなかった。すなわち、戦 争景気で得た収益の一部を、ベンベルグ絹糸製造を目的とする旭化成の前 身旭絹糸を資本金800万円で創立する。ベンベルグとはドイツ「ベンベ ルグ社」が販売する人絹生地の商品名のことだが、人絹糸を処理するとき に得られる硝煙は、綿火薬の原料であり、平和産業から戦時産業へと容易 に転換可能な製品なのである。自社製品をそれぞれ連携させながら、全体 としての日窒コンツェルンを構想する野口の目にはたぐいまれなものがあ る。 ★カザレー特許拾得をドイツ出張中に決断
カザレーに会って交渉を始める。要求してきた値段は100万円。ずい ぶんと吹っかけてきたものが、実験の内容を子細に検討してみると、これ は事業化できそうだと野口は判断した。しかし、問題は特許料である。金 額が大きいだけに、自分一人では判断しかねたのだった。関係者と協議の 必要がある。そうは言っても、同業者が狙っている技術だ。野口は腹を決 め、東京に電報を打った。「日窒が潰れるかどうかの瀬戸際。思い切って カザレー特許を買い取るべきだ!」と電報を打った。(つづく) |