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第3回 「山本条太郎―情報をカネに替えた草分けの商社マン(3)」

★条太郎が張り巡らせた東南アジアの情報網
 戦争勃発の報を聞くや、山本条太郎は香港、シンガポール、サイゴンま で情報網を張り巡らせ、情報を収集し、海軍当局に通報する役割を買って 出た。商社の持つ情報ルートは多岐に渡る。取引先や自らの支店網。さら には外国商船の船長や水先案内人にまで、懐柔の手を伸ばし、情報を集め た。バルチック艦隊が日本海に接近したときなどは、条太郎が自ら小型船 舶を借り受けて、監視活動を行った。その都度、上海支店を経由し、東京 本店を経て、海軍当局に電報は届けられた。

 バルチック艦隊の対馬海峡通過の可能性を、いち早く判断できたのも、 山本条太郎が発した電報に負うところが大きかった。対馬沖に布陣し、日 本連合艦隊がバルチック艦隊を待ち受けた。いわゆる日本海戦でバルチッ ク艦隊が殱滅した。このとき、山本条太郎は弱冠39歳。上海にあって三 井物産清国総監督という地位にあった。軍事探偵のような仕事をするとは、 商売人としてはいささか逸脱の感もなくない。もちろん、条太郎が中国で やったのは、軍事協力ばかりではない。

★商売の要諦は人材教育にあり!
 商売というのは人と人の関係であり、結局は人間関係に収斂する。山本 条太郎は、そのことをよく理解していた。そういう視点から取り組んだの が人材教育だった。まず社員に語学の研修をほどこしたこと。彼が重視し たのは語学ばかりではない。中国で商売をやるには、中国人の文化や心理 も識る必要がある。このような構想からスタートしたのが「支邦部商業見 習い制度」であった。教育で強調されたのは「中国人の心を識る」だった。 この教育制度から後年、政界で活躍する多くの人材を生んだ。

 昭和2年田中内閣の外務政務次官を務め、幣原喜重郎外交を批判し、対 中国強硬の田中外交を推進し、同年の山東出兵、東方会議などに大きな役 割を果す森恪などもその一人だ。森は、7年国際連盟脱退を暗示する演説 をするなど、いわゆる「東亜新体制」の先駆とされた人物だ。4年立憲政 友会幹事長、6年犬養内閣書記官長などを歴任した。極右路線を走り、軍 部といっしょになり日本を破局に追い込んだ政治家だが、ともあれ山本の 下で働いた森は優秀な商社マンであったことだけは確かだ。

★上海紡績工場の再建に一役欧
 さて、山本条太郎は中国での働きを認められ、参事に昇格し、大阪支店 綿花部長に就任するのは、明治30年10月のことだ。しかし、条太郎は 鬱々としていた。やはり、山本条太郎には国内よりも、中国大陸が似合っ ている。再び中国に戻るのは明治34年9月だった。4年ぶりの中国。条 太郎が着目したのは、中国の綿紡績だった。条太郎には苦い思い出がある。 というのも、若い時分に上海で取り組んだ綿紡績事業が経験不足から失敗 に終わったからだ。今度は違う。大阪で紡績業の経験をつんだ。

 上海に再赴任した翌年、条太郎は経営不振の現地紡績会社を買収し、こ れを上海紡織有限公司と名付けて、取締役に就任する。まず工場の実情を 調査するところから再建の道を探った。原料の買い付け、設備の改善、従 業員の訓練教育、そして営業方針の見直しを行った。買収した現地法人は 見事に立ち直り、好成績をおさめるようになる。評判がたち中国人実業家 盛宣懐から申し入れがあり、彼が所有する「大純紗廠」の立て直しに協力 する。こうして中国における本格的な産業投資が始まるのであった。

 条太郎は中国紡績業の近代化に辣腕をふるう一方で、本来の商社事業で ある貿易についても、新規商品を次々と開発し、日中貿易の拡大に大きく 貢献するのだった。いわゆる三角貿易という取り引き形態を開発するのも、 この上海支店長時代だ。いまでもこのビジネスモデルは生きている。条太 郎は40代に入り、それまで暖めていたアイデアを次々事業化していく。 例えば、原産品を輸出商品に育て上げ、これを欧米諸国に売り込み、さら に欧米諸国の商品を中国に持ち帰るというビジネス方法だ。しかし、苦戦 も強いられる。(つづく)