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第4回 「福沢桃助――電力業界の奇才(4)」

★政治家としての福沢桃助
 祝賀の席上で桃助は謝辞の演説を行っている。その演説が人を食ってい る。演説の最後に、こう言ったものだ。今度アメリカに来るときは、カネ を貸しに参ります――と。会社が潰れるかどうかの瀬戸際に立たされてい る経営者にしては、ずいぶん剛胆な物言いである。タフト前大統領、ヘー ル上院議員、モルガン財閥の大番頭ラモントらを前にしての大演説だ。場 内を爆笑させたのは、いうまでもない。カネを貸すのがビジネスなら、借 りるのもビジネスだ。そうであるなら、互いに平等だという思いが桃助に はあった。桃助は強運の男だ。日米関係が緊張している最中のことだ。常 識的に考えれば、アメリカで外債を発行することなど成功するはずがない と考えるのが自然だ。桃助の人生において、外債発行の快挙を成し遂げた ことは、事業家としての総決算であったといえるかもしれない。しかし、 事業がすべて順風満帆であったわけではない。振り返れば、挫折の連続と いっていいかもしれない。桃助は帰国の船上で自省をしている。

 桃助は山ッ気の多い男だ。桃助45歳のときだ。西園寺公とのつき合い から政治に興味を覚えて千葉県から代議士に出たことがある。しかし、長 続きはしなかった。議会での桃助の演説が残されている。当時、マスコミ を賑わした「郵便会社事件」を追求する演説だった。政治家と官吏がグル になった汚職事件なのだが、しかし、事件の本筋を追求するというよりも、 相手が困惑する顔を見て、喜ぶという態度だった。議会で自らの国家観を 示すことも、掲げるべき政策課題もなく、国が進むべき道を議論すること もなかった。政治家としての、桃助は残念ながら記録にとどめるような仕 事はなにもしていない。やったのは議会をからかっただけだ。あの程度の ことではないか、政治なんかオレにもやれる、そんな風に軽く考えていた のだ。要するに、いまのタレント議員と同じようなもので、売名だけが先 立ち、政治にかける理念など何もないのだから、早々に身を引くのも当然 であったかもしれない。そんなためか、桃助に対する世間の評判は芳しく なかった。

★桃助の金銭哲学
  このころまで、桃助の思いは一筋である。カネを儲けること、桃助の行 動はすべてがそこに集約される。日露戦争のとき株価に着目し、株式投資 に走ったのも、そんな人生哲学からだった。しかし、他人と少し違うのは、 株でボロ儲けをした連中が放蕩の限りをつくし、あるいは無謀な投機を繰 り返した結果、無一文になった連中が多いなか、桃助は早々と見切りをつ け、撤退したことだ。

 桃助は機を見て敏な男であった。目指すは、常に巨大な事業である。株 屋は株屋に過ぎぬ、自分は公益的な大きな事業を起こす、三井や三菱のよ うに巨大な財閥を作り上げてみせる――桃助のカネ儲けとは、そのように スケールが大きいのである。その考え方は彼の数少ない著書『家憲物語』 によく出ている。「私は貧乏人の家に生まれたから、富者に対する反抗心 が強く、金持ちになって金持ちを倒してやろうと実業界に発心した。名古 屋、九州で水力発電をはじめたのも、東京では東電が頑張っていて向こう が晴れず、いまさら三井、三菱に頭を下げるのも癪だったので、田舎落ち したのだが、時勢で電力の需要が高まってきたので、順調にいくようにな ったわけだ」と、電力事業にかける意欲を、桃助は熱っぽく語っている。 大財閥なにするものぞ! という心意気が伝わってくる。桃助が手がけた 事業は電気事業ばかりでなく、多方面に渡る。三井、三菱を向こうに張っ ての、金持ちに対する反抗心が、桃助を奮い立たせたのである。

★肉親の情に薄かった桃助
  しかし、桃助は多くの事業を手がける反面、多くの企業を倒産させてい る。岳父諭吉から2万5000の借金をして起こした丸三商会も、敢えな く倒産した。丸三商会が手がけた北海道から鉄道の枕木を輸出する仕事は 順調だった。倒産の原因は三井銀行が丸三商会の為替取扱いを、断ったこ とにあると桃助は信じているようだ。株屋――との評判を三井銀行が耳に して、より慎重になったのだ。企業が倒産する事態のなかで、企業経営者 は悲痛のどん底にたたき込まれるのは今も昔も変わらない。それが桃助の 独自の金銭哲学に磨きをかけたのかもしれぬ……。そして着目するのが電 力事業である。

 彼が終生の事業と考えた鉄道事業は、9割以上が国有化されて、入り込 む隙間がなかったため、事業は成功しなかった。電力事業でも、東京でも 大阪でもなく、木曽川に着目するのは、三井・三菱らの財閥が東京で頑張 っていて、入り込む余地がなかったからだ。しかし、電力事業に関わりを 持つようになるのは、松永安左エ門との邂逅がある。松永は桃助の事業を 引き継ぎ、電力業界で重きをなすのはご承知の通りだ。大同電力の再建に 道をつけた桃助は昭和3年に実業界からの引退を声明する。肉親との縁が 薄かった桃助が、実妹で歌人の翌子と心を通わせるようになるのは、晩年 のことだった。

★経営者には必須の能力
  実業家として福澤桃助を見たとき、やはり評価すべきは、アメリカから シンジケートローンを引き出したことである。日本では長期の借金ができ ないと判断するや、すぐに行動を起こして、ニューヨークに飛ぶ身軽さと 決断力。大小問わず、経営者には必須の能力というべきであろう。それは 努力したり、勉強したりして、身につけた能力ではない。生来のものであ る。桃助は決して努力型の人間ではなかった。どちらと言えば、遊興の巷 で遊び惚けるタイプの男だ。もちろん、遊びもしたし、遊興に大金をばら まいた。しかし、それを決然とやめる勇気を持つ男でもあった。世間は桃 助を坊ちゃんとみなしたが、決して坊ちゃんなどではなかった。自分で運 命を切り開いた男だ。

 桃助は自らの初志を「金持ちになることだ」と堂々と語っている。しか し、それで誤解を受けた節もある。実は桃助は内省的な男であった。別な 言い方をすれば、桃助は自分の顔を自分で作り直し、即物的な処世観を造 形したのである。内省的な面は、歌人として知られる実妹翌子との交流の なかに現れる。翌子は即物的な兄を嫌った。しかし、翌子は兄を理解する よう努めた。肌合いの異なるこの兄弟は、桃助の晩年、静かな語らいを持 つようになる。桃助の行動にひたむきなものがあった。それが翌子には、 自らの歌人の生き方と重ねながら、求道者としてのもうひとつの桃助の顔 をみたに違いない。(完)