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第3回 「藤岡市助――我が国最初の大学ベンチャー(3)」

★もうひとつの電灯会社構想
 藤岡は山尾を前にして、電灯会社設立の必要を説いた。過激派志士あがり の山尾は理解が早かった。ひとつのことをなすには、多くのひとびとの協力 が必要だ。山尾はすぐに矢島作郎を紹介する。矢島もまた、維新のおりには 、白刃をくぐり抜けた過激派志士の一人であった。長州藩派英留学生として 、山尾と同じくロンドンに渡り、金融財政を勉強した男は、藤岡の「大山師 話し」に熱心に耳を傾けた。当時、矢島作郎は造幣局長の職を辞して銀行頭 取を務めていた。矢島の人を見る目は確かだった。

 矢島はすぐに人を集めた。こうして発足するのが「東京電灯」である。明治15年3月に東京府に対し、設立願いを提出し、これが認められる。設立 発起人は、矢島作郎、三野村利助、大倉喜八郎、原六郎、柏村信、蜂須賀茂 詔など錚々たる陣容である。新会社のスタートは順調であるかにみえた。と ころが思わぬ障害が立ち現れる。同様に電灯会社を設立する動きが出てきた のだ。事業化に成功するかどうかもわからぬ時期に、同じ東京で二つも電灯 会社ができれば、共倒れになるのは必然だ。藤岡は素早く動いた。まず矢島 を口説き、渋澤栄一を介し、もうひとつの電灯会社「日本電灯」と合併する 話を進めた。

★藤岡博士の設計にして点火せり
  こうして藤岡市助は電灯事業に乗り出すのだが、なお学問の人でもあった 。工部大学校にあっては、組織改革に取り組み、電気通信科を電気工学科に 改組するなど行政的な手腕を見せる一方で、土木鉱山用の手回し発電機の開 発や、アーク灯の改良研究に取り組んでいた。土木鉱山用の手回し発電機の 製造は、岩国養老館以来の親友で、技術者でもある三吉正一が製造を手がけ た。この発電機は小型軽便であるため、需要は大きかった。大学ベンチャー としてのはじめてのヒット商品だ。しかし、本業は電灯である。アーク灯の 改良研究に心血を注いでいた。このころの藤岡の研究とその実験の記録を、 当時の電機工学科事務主任であった牧野良桃が記録を残している。

  藤岡博士の設計にして、明治17年工部大学校作工場に於いて製作したるものなり。但し、鋳物は川口鋳物所に依頼せしめたり。蓋し本邦製発電機最 古のものとす。銀行集会所新築祝いに於て電燈を点火せり。藤岡博士の設計 にして、明治19年工部大学校作工場にて製作したるものにして、略125 電圧40電流(推定)なり。工部大学校書房に60個の白熱電燈を点火した り。憲法発布当日、帝国大学正門に電燈をもって万歳の2字を表し祝意を現 したるとき、この発電機を使用したり。此時約100灯の白熱燈を点火せん として成功せず、80灯に減じて満足なる結果を得たり。藤岡の奮闘ぶりが 目に浮かぶ。(つづく)