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第2回 「三野村利左衛門――情報に通じた目利きの番頭(2)」

★情報の価値を知る男
  三井家は本業の呉服の商いに加え、両替商としても超一流の大商人だ。素 性もはっきりしない男が、大番頭に引き上げられるにはわけがあった。利左 衛門は「情報」の意味をよくよく知っていたからだ。宝暦年間のことである 。利左衛門は御用金の話を小耳にはさんだ。勘定奉行小栗上野介の屋敷で働 いていたときのネットワークである。勘定奉行といえばいまでいう財務大臣 。幕府の財政を一手に仕切るのが、勘定奉行だ。その幕府が三井家に御用金 を賦課する話を内密に進めているという。用意せよ!というのは200万両 にも上る大金だ。三井家はそれまでもたびたび御用金を求められていた。今 度の場合は長州征伐のための軍資金だという。利左衛門から情報を得た三井 家は、さっそく陳情を開始して200万両を、50万両まで減額させて、そ れを6回に分け、分割上納することに成功する。大店の三井家といえども2 00万両の支払いは辛い、命じられるままに支払ったらたちまち三井は倒産 だ。

 三井家は情報を先んじて入手することができ、どうにか難局を逃れる。利 左衛門は情報の価値をよく知る男で、適時に必要とする相手に情報を伝える ことで、情報の価値を一気に高めたのだった。のちに三井家は度重なる上納 金賦課に悲鳴を上げ、利左衛門の進言を入れて、専任のセクションを設ける ことになり、そのため利左衛門を雇い入れることになった。三井家の番頭た ちから「紀ノ利」と呼ばれていた利左衛門が、三野村利左衛門と名乗るよう になるのは、このときからである。新しいセクションは「御用所」という。 利左衛門の仕事は「御用所」を取り仕切るだけでなく、知故の小栗上野介を 通じて幕府要路に働きかけ情報収集に当たる一方で、御用金減免につき幕府 勘定方と交渉するのも利左衛門の大切な仕事のひとつであった。御用金20 0万両が50万両の減額されたのはいうまでもなく利左衛門の働きによるも のだった。以後も幕府の御用金賦課を要求してくる。三野村が三井家に重宝 されるようになるのは、こうした事情があったからだった。

★時代を見通す洞察力
 しかし、時代は急展開を遂げている。三井のような大店ともなれば、政治 の動きと無関係ではいられない。政治と経済は、いまも昔も一体なのである 。利左衛門は時代の動きというものをよく見ていた。大商人といえども、い や大商人だからこそ、政治との関係を誤れば、倒産という事態も考えられた からだ。まして維新という革命の時代だ。革命は万物を変える。慶應3年、 幕府は大政奉還する。同年の12月に王政復古が発せられ、官軍は怒濤の勢 いで東進を開始する。あちらこちらで旧幕軍との間で戦闘が演じられ、つい に江戸城は官軍の手に落ち、江戸は東京と改められた。京都から天皇を迎え て、首都と定められる。こうした動きを利左衛門は、各地に張りめぐらした 独自のネットワークを通じてつぶさに内偵していた。情報を得るだけでは不 十分だ。

 利左衛門が卓抜した能力を示すのは、その解析力にあった。しかし、情報 を得て、時代を洞察する力があっても、それを生かす経営者が不在では意味 をなさない。幸い三井家には高福、高朗の親子がいた。利左衛門を重用した のは、この高福・高朗の親子である。当時の三井家は新勢力の薩摩や長州に 通じる一方で、旧幕府に対しても、従来の関係を維持していた。掌を返すよ うなまねはしない――というのが、商人の心意気というわけだ。そうするの は信用の源泉でもあると心得られていたのだった。悪く言えば二股派だ。と はいえ、江戸は東京と改められ、徳川将軍家に代わり、天子さまの時代とな ったのである。新政府支持に旗幟を鮮明するのも、商人ならでわである。か くして大転換を図り、三井家は官軍の軍資金調達の任を担うようになる。以 後、積極的に明治新政府を支援し、新政府確立後は確固たる政商三井の地位 を築き上げるのであった。もちろん、幕末から維新にかけての、この大変革 の時代のことゆえ、三井家内部にも異論はあった。その異論を抑えて、大転 換を図る上で、三野村利左衛門が果たした役割は、決して小さなものではな かった。(つづく)