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第4回 「渋澤栄一――日本資本主義の父(4)」

★明治政府に出仕、上司に楯突く
 今も昔も、役人の栄達は上司によって決まる。だから上司と衝突するなど、 できない相談だ。トントン拍子で出世を重ねるかに見えた渋澤は、上司の得能 通正と衝突する。得能は出納頭だった。今でいう主計局長の役どころだ。旧幕 臣の渋澤は新政府ではあくまで外様だ。外様ゆえに渋澤は政治には関与せずも っぱら実務家として通した。その実務上のことで、得能が注文をつけてきたの である。このときの衝突というのは、資料を調べてみると、たわいのないこと である。金銭の出し入れについて、上司の決裁を受けた上で、領収交付す―― という渋澤が策定した規定に得能が反発したのだった。

 簡単に言えば伝票がなければカネは出さないという仕組みだ。ところが志士 上がりの官僚には、それができなかった。何と言っても、彼らは血なまぐさい 維新の政治闘争を戦い抜き、酔えば芸者の膝枕で、天下国家を論じる連中であ る。しかし、この制度は上司の決裁を仰ぎ、省内手続きを経て確立した規定だ 。もちろん大蔵省の事務章程を起草したのは渋澤であった。その渋澤に上司の 得能は「このオレが何で自由にカネが使えないのか」と怒り狂った。国庫のカ ネを自分のものとでも思ったのか、公私混同である。渋澤は怒った。もともと 筋違いの怒りだ。渋澤は理路整然と反論した。この話を民部大輔の井上馨が聞 き、かんかんに怒り、得能の首を切ってしまった。

★大蔵省を辞し実業家へ
 とりあえずことはおさまった。しかし、薩長が跋扈する役所のことだ。こう なると、役所には居づらくなるものだ。自分は官僚として生きていくべきか、 それともフランスで体得した「合本主義」を、この日本に根付かせるべき、実 業家と生きるべきではないか。渋澤は迷った。この迷いが、渋澤の人生航路を 決める。こうして彼は実業の世界で生きることを決断したのだった。明治6年 に大蔵省を退官し、当時、設立されたばかりの第一銀行の総監役に就任する。 以来、渋澤は「官に就かず職を転じず転湾松角することなく」(『渋澤栄一伝 』幸田露伴)日本経済の発展に挺身していくことになるのである。

明治の新興産業で、おそらく渋澤栄一の息のかからない事業はなかろう。銀 行業、証券業、紡績、保険業、鉄道事業など、事例を上げていったらきりがな いほどだ。ついには渋澤財閥を形成するにいたる。その意味で渋澤は明治期の 新規事業のベンチャーであり、ベンチャーキャピタルでもあったのだ。しかし 、日本資本主義の父と呼ばれる渋澤も、幾多の危機的状況に直面した。事業の もつれから暴漢に襲われたこともあった。それでも敢然として自らが信じる事 業を追求し、事業を成功に導くのだった。

 歴史上の人物から学ぶべきは成功譚ではない。学ぶべきは失敗から得た教訓 だ。渋澤は幾度も危機の淵に立たされた。最初の試練は大蔵省を退官し、国立 第一銀行に移ってから受けた。国立第一銀行は豪商である三井家と小野家とが それぞれ100万円を出資、残りを一般公募で発足した日本で初めての株式会 社方式による銀行であった。渋澤は大蔵省在勤当時から関与した思い入れの強 い銀行でもあった。何しろフランスで学んだ「合本主義」を初めて実践する銀 行であったのだから、それも当然というべきだった。(つづく)