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第2回 「中部幾次郎――大洋漁業の創業者(2)」

★試行錯誤の連続が成功を生む
 幾次郎は凡庸な男だが、研究熱心だった。研究熱心なのは、何も天気予報を して魚価を予測することだけではなかった。魚は鮮度がよければ、高値がつく 。いかに鮮度を保つかが勝負だ。方法はきわめて単純だ。漁場から港までの輸 送時間を短縮することだ。瀬戸内海など近くの漁場なら問題はないが、船足が 伸びて、土佐沖や五島列島まで出かけるとなると、いまのように冷凍設備など ないから、鮮度を保ちながら輸送するのに一苦労させられる。しかも当時は押 し送り船による運送だ。せっかくの大魚も港についたとき、臭気を上げている ようじゃ値段がつかない。そこで幾次郎が目をつけたのが瀬戸内海を走る蒸気 船だった。高速で走るから輸送時間が短縮できる。しかし、これは高価だ。名 もない林兼には大金を用意することができなかった。それならば和船に古汽缶 を取り付けることができないものか、と考えた。強力なエンジンをつけるのだ から、確実に船足は速くなるはずだ。アイデアはよかったが、しかし、船体を 作る船大工が現れなかった。

 経営というのは、試行錯誤を繰り返すものだ。ようやく見つかった船大工も 、首を傾げるばかりだ。船大工を督励し苦心惨憺の末に、どうにか形はできた 。しかし、素人のこととて実用に耐えられるものではなかった。仲間の魚屋た ちは「バカなことよ」と、幾次郎を物笑いにしたものだった。試行錯誤は続け られ、窮余の策として考案されたのが、蒸気船で和船を引っぱる方法だ。蒸気 船を買い入れるほどのカネはないが、蒸気船をチャーターできれば話は別だ。 動けば方策は見つかるものだ。行動と決断――というのが、幾次郎の身上だ。 しかし、船主は渋い顔をした。魚じゃ臭いがつくと難色したのだ。いや、曳船 として使うだけだから、臭いはつかないと応じる。渋る船主を説得し、どうに か交渉はまとまった。こうして日本で初めての魚の蒸気船曳航による輸送が始 まるのだった。

★時間はカネだ!
 チャーターしたのは「淡路島丸」という蒸気船だ。幾次郎は素早く計算して いた。明石や淡路島から早朝に出航しても、大阪の市場に悠々間に合う。汽船 で曳航すれば、もう大阪など数時間の距離だ――と。幾次郎の目論見は見事当 たった。明石の魚は活魚――との評判を呼び、4、5割の高値で飛ぶように売 れた。押し送り船が嵐で出航できないときでも、林兼の船だけは動き、高値が つき、その利益は莫大なものだった。まさに時間とはカネだ。アイデアにかけ た勝負は見事成功を収めた。ときに幾次郎31歳のときである。

 明石といえば鮮魚――という評判を取ったのは、文字通り蒸気船による曳船 運航のおかげだった。しかし、凡庸な男は工夫と研究を忘れない。評判を取り 、成功をおさめれば必ず後に続く者が出てくるからだ。成功に酔いしれている と、続く者に追い抜かれる。おりから大阪では第五回勧業博覧会が開かれてい た。幾次郎は船大工松五郎を帯同し、博覧会に出かけた。もちろん、物見遊山 のためではない。目的は日本に初めて輸入された冷凍庫なるものが展示されて いるという話を聞いていたからだ。魚の保存に絶えず苦労させられていた幾次 郎には、冷凍庫に興味をそそられたのだった。なるほど――と、実物を見て幾 次郎は大いに感心するのだった。しかし、船大工を帯同したにはわけがあった 。大阪の川筋で運行されている「巡航船」なるものを、しかとこの目で確かめ るのが目的だった。(つづく)