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第4回 「岩波茂雄――出版文化の大衆化の功労者(4)」

■戦争反対を企図した新書版出版
 大正から昭和初期にかけては左翼運動が勃興した。民主主義や共産主義の思 想が知識階級に浸透するにつれ、労働運動も活発となった。大企業は労働運動 の荒波に襲われた。岩波書店も例外ではなかった。昭和3年3月のことだ。店 員によるストライキが起こったのである。岩波茂雄は労働者にも理解を示す、 リベラルな思想の持ち主だ。岩波は官憲の手を借りて問題を解決するのではな く、正面から従業員と向き合った。すなわち、従業員の要求を聞き入れ、従業 員の待遇を改善することで問題の解決を図ったのである。不況の最中にもかか わらず、岩波書店は業績を伸ばした。文庫本や「芥川龍之介全集」などが、当 たったからだ。岩波は必死で企画を考え、社内外に協力者を求め、次々と企画 を具体化していくのである。ここに先頭を切って走る経営者の姿がある。創業 20周年を記念し「岩波全書」が出版されるのは昭和8年のことだ。

 文庫が古今東西の古典を対象として出版されたのに対し、全書は社会、自然 、文化の全分野にわたり現代学術の普及を目指すもので、当時は「帝国大学の 講義の水準にある」と評価される信頼すべき内容であった。しかし、時代は戦 争へと動き出していた。日中戦争が勃発するとともに、軍部の発言権が強まり 、多くの書物が絶版の憂き目にあい、出版事情は次第に困難となる。このよう なとき岩波茂雄は「岩波新書」を企画した。その後の新書版の原型となる出版 だ。学徒兵が新書や文庫を懐に入れ、出陣していった。岩波茂雄の頭にあった のは、悪化する日中関係を憂慮し、中国理解の役に立てば――ということであ った。テーマに選ばれた書籍からも、そのことがうかがわれる。岩波は平和を 祈願する人であり、日中戦争には反対であった。新書版を新たに企図として目 的はそこにあった。その意図が受け入れられたかどうかは怪しい。

■戦争終結の願い
 新書版の出版は経営的に観れば大成功だった。文庫本は100頁につき20 銭の値段をつけたが、新書版はページ数にかかわらず一律50銭とした。価格 の安さと斬新な内容に学生や知識人だけでなく、一般の人びとは飛びついた。 事業は大成功なのに、しかし、岩波の心は鬱として晴れなかった。戦時一色の 世の中だ。早く戦争を終わらせねばと思った。日中戦争の愚挙を非難した友人 の幾人も、囚われの身になった。中国人留学生の面倒を見るようになるのも、 この頃のことだ。贖罪の意識が、そうさせたのだろう。日中戦争が本格化する 直前、彼は中国の主要大学に岩波書店の書籍を寄贈することにした。しかし、 この計画は戦争が本格化するなかで中断を余儀なくされた。岩波の遺志を汲ん で岩波書店が北京大学、武漢大学など5つの大学に書籍1025冊を寄贈した のは昭和22年のことだった。

 岩波茂雄が中国に対し特別な感情を抱いたのは「日本文化の源流は中国に発 する」という考え方からだった。昭和16年、岩波は年頭の挨拶で「今年は平 和がくるのではないかという気がするが、この仕事だけに専念したい」と述べ ている。そう挨拶するには事情があった。時代は暗く重っ苦しい空気に包まれ ていた。昭和12年8月に、書店店員小林勇が「反国家的共産主義者の出版物 を刊行した責任者」として治安維持法で検挙される事件が起こったからだ。小 林は岩波の片腕として出版事業を切り盛りし、後に会長を務める男だ。国家権 力による知性に対する弾圧だ。しかし、岩波は小林を守った。

■岩波茂雄の軍部批判
 昭和17年11月、岩波茂雄は内外の有識者参列のもと、書店創立30周年 記念の式典を挙行する。この席で岩波は「広く会議を興し万機公論に決すべし 」で始まる「五箇条の御誓文」の意義を改めて強調するのだった。すなわち「 五箇条の御誓文」の言辞を借り軍部独裁を強烈に批判したのである。けれども 岩波茂雄は英米を相手にした戦争に反対であったのではなかった。アジアの解 放という理念を抱く岩波は、アジアを蹂躙する英米帝国主義諸国を、少なから ず批判的に観ていた。けれども日本が中国大陸やアジアに乗り出しアジア人同 士が戦争することは反対だった。

 やがて敗戦。岩波茂雄は「敗戦を神風」と呼んだ。これから日本は民主主義 となり、時代は良くなると信じたのだ。家庭における岩波は、幸福な人間では なかった。しかし、彼は出版人として大成功を納めた。けれども、それは企図 した事業の結果ではなかった。食えればいいさ――程度で始めた古本屋。出版 でもやってみようか、と始めた出版事業。大志を抱き、出版業を始めたわけで はない。あえて言えば、おもしろいことをやりかっただけだ。時代が彼に味方 し、友人が協力し、次々とヒットを飛ばした。岩波は無類の人間好きだった。 マメに友人たちの間を歩いた。その人間好きが著者の層を広げた。昭和の知性 を総なめにできる人脈だ。彼は人をもてなすのがとても好きだった。著者も育 てた。

 岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である。茶飲み話からいくつも新 企画が生まれた。あれこれ考えた末の企画というよりも、意図せざる故の事業 の成功だ。確かに岩波は非凡な才能を持つ出版人だ。経営者としての岩波茂雄 をみたとき彼の「人間好き」に着目したいと思う。その意味で言うなら、彼こ そが「人間これ即ち事業なり」を、身をもって実践した事業家といえるかもし れぬ。脳溢血で倒れ、静養中の「楷擽荘」で永眠する。終戦の混乱が続く昭和 21年4月のことであった。(完)