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第6回 「小林一三(いちぞう)――希代の遊び人事業家(6)」

■過剰電力対策
 それでも巨大な設備を抱え、電力供給過剰の状態にある。供給過剰対策とし て肥料工業の立ち上げを構想するのは、昭和3年のことだ。朝鮮や満州では安 い電力を利用し、肥料工業が盛んとなっていた。あるとき、出入りの新聞記者 から化学肥料は大量に電力を消費するという話を聞く。人を介して、会ったの は森矗昶だった。相談を受けた森は決断の早い男だ。ここに昭和肥料が誕生す る。昭和肥料は昭和14年に日本電工と合併し、その後の昭和電工となったの はご承知の通りだ。工業化を目指したのは硫安だ。最初は欧米の技術を買って 工業化を図ったが、商工省の応援を得て、日本技術による硫安生産に成功し、 この事業は電力消費対策ということだけでなく、日本の肥料工業の発展に大き く寄与したとして高く評価されている。昭和10年、小林一三は訪欧の旅に出 ている。そのときソ連でアルミの生産現場をみている。日本軽金属を立ち上げ 、アルミの本格生産を企図するのは、この旅がきっかけだった。アルミも電力 を大量に消費する産業だ。なお、小林はこの次期にヨーロッパを旅行し、後に 欧州歴訪の記録を出版している。

 もちろん、本業の鉄道事業を忘れていたわけでない。東京進出と同時に、目 黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄の取締役も引き受けていた。両者の合併で東京 急行が誕生し、また渋沢栄一に協力し、田園都市株式会社の立ち上げにも参画 している。東急の創始者・五島慶太との親交が始まるのは、この頃からだ。当 時、五島慶太は鉄道省を辞め、武蔵野電気鉄道で常務の職にあった。東急を創 設するのは後のことであるが、事業を進めるに際して何かと相談した相手は小 林一三であったと五島は後に語っている。昭和14年、小林は取締役として三 越に乗り込む。人生というのはわからないものだ。三井銀行から三越入りを希 望したのは30年前のことだ。しかし、希望は入れられず、失意の日々を送り 、それから30年後に三越重役となるのである。これには、ひとつの物語があ る。五島慶太が三越乗っ取りを画した事件だ。怒った三井側は東急への融資を 停止した。そこで和解に動いたのが小林だったのだ。五島が持つ三越株を三越 の子会社に譲渡し、残りを東急と阪急が持つ、というのが和解案で、小林は阪 急の代表として三越取締役に就任したのだった。

■天才は努力の人だった!
 昭和14年、小林一三は東電社長を辞任する。もともと小林は自由な経済人 である。しかし、時局は統制経済に入っていた。抵抗を試みるが、時局には勝 てないと判断しての辞任であった。欧州歴訪から帰国すると、東京の別邸に訪 ねる人があった。近衛文麿の代理人と称する人物だった。近衛内閣の商工大臣 をお願いしたいというのが用向きだった。天下国家のため一肌脱ぎたいと大臣 を引き受けることにしたが、商工省が進める国策は統制経済である。小林は生 来の自由主義経済の信奉者だ。引き受けてはみたが、とても務まらぬと思った 。小林は「大臣落第の記」を発表し、辞任する。遊び人は自由であらねばなら ぬ――と。

 池田成彬は小林を評し、後に語っている。何か問題にぶつかるといくらでも 智慧が出てくる不思議な人物だった。読んだり聞いたりした普通の学問から割 り出した考えではなく天才です――と。今日でいう創意だ。そして用意周到で あった。そして小林一三は数々の事業で成功を収め、大阪の人びとは「今太閤 」と呼んだものだ。文学を志し、いやいやながらの銀行勤めは不遇だったが、 運命を変えたのは箕面有馬電鉄に入ってからだ。阪神線の開業に際し、アッと 言わせる広告宣伝を打ち、駅員には制服制帽で接遇させるなど庶民感覚もあっ た。しかし、小林は徹底した合理主義者であった。それは東京電灯での経営再 建でみせた手腕にも認められる。池田は天才というのだが、しかし、小林は努 力の人でもあった。この人物が都新聞に入り、希望の文学の世界に入ったとし たら、どのような作品を残すことになったか、小林の自伝を読みながら、しば し考えたものだった。(完)