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第3回 「小林一三(いちぞう)――希代の遊び人事業家(3)」

 鉄道事業を中核に据えた小林一三の多角経営は見事に成功した。初代社長の岩下 も二代目の平賀も小林を信頼し、すべてを任せた。事業は小林の独断で進められた 。しかし、事態は急変する。全幅の信頼を置き、小林にすべてを任せていた岩下が 急逝したからだ。岩下は疑獄事件に連座し、不遇のうちに没した。箕面有馬電気軌 道の大株主は北浜銀行である。その北浜銀行が小林の独断専行経営に面白からず思 っていた。岩下が急逝すると、態度を急変させた。あれこれ口出しするのは、大株 主の立場だから、これは認めざるを得ない。しかし、無理難題はそれだけではなか った。ある日、小林のもとを訪れた北浜銀行の営業担当者が、持ち株を処分したい 、それを買い取ってくれと申し出た。これには仰天した。北浜銀行の狙いは明白だ った。小林に買い取り資金がないことを見越しての、無理難題なのだ。しかも買い 取り期限は三日後という。

■絶体絶命の中で得た境地
 小林はすぐに行動を起こす。借金のため友人、知人、親戚の間を八方奔走し、借 金に駆けずり回った。広い交友が小林を助けた。こうして小林は、北浜銀行が買い 取りを要求した過半の株を自らの手中に収めるとともに、残りを大同生命や日本生 命、友人知人に引き受けてもらった。ここに株主実業家・小林一三が誕生するので ある。このときの教訓を小林は、後に書いている。株の過半を握ることで事業を自 分のものと実感できるようになったこと、株主事業家になったことで事業自体に理 想をもてたこと、人を頼らず、独立独歩の人生を歩むべきである――と。とりわけ 小林が肝に銘じたのは、人を頼まず、己に頼れという精神だった。そう銘じたのは 、岩下清周が北浜銀行事件に巻き込まれ、裁判で有罪判決を受け、不遇のうち死ん でいくとき、岩下に面倒を見られた人たちを含め、関係者が岩下にどのような態度 をとったか――を、つぶさに見たからだ。

 小林一三は意欲的な事業家である。北浜銀行が放出した株を買い取り、経営基盤 は一応の安定をみた。そこで小林は、宝塚線十三駅から伊丹〜門戸に至る西宮線を 完成させ、灘循環鉄道と連結し、大阪〜神戸に複線を走らせる計画を打ち出した。 おりから阪神電気鉄道は、大阪〜神戸に複線を走らせ、高収益を上げていた。小林 の計画は、そこに殴り込みをかけるものだ。抗争が起こるのも当然だ。計画を進め る上でひとつ問題があった。灘循環鉄道が北浜銀行に株券を融資の担保に預けてい たことだ。その北浜銀行は疑獄事件のあおりで、休業に追い込まれた。そこに起こ ったのが灘循環鉄道の株式処分問題だった。防戦上、阪神電気鉄道が灘循環鉄道株 取得に動くのは当然だ。灘循環鉄道が阪神電鉄に握られれば、小林の計画は頓挫す る。小林は窮地に追い込まれた。しかも宝塚〜有馬の鉄道敷設計画が資金難から宙 に浮き、また梅田〜野江間の鉄道施設も、北浜銀行が絡む疑獄事件が発覚するにお よび計画は断念せざるを得ない状態にあった。

■岸本兼太郎との出会い
 小林は意を決し、阪神電鉄との交渉に臨んだ。交渉は難航した。しかし、交渉の 途中で阪神電鉄側は折れる姿勢を見せ始めた。もちろん、条件つきではあるが…… 。用意しなければならない資金は約20万円。阪神電鉄は足下をみて吹きかけてき たのだ。もはや考える余地はなかった。小林は買収資金集めに奔走し、どうにか灘 循環電気を買収する。ほっと息をつくまもなく次は阪神線建設の資金調達だ。主力 銀行であった北浜銀行は、倒産していた。取引先の加島銀行に相談してみた。しか し、にべもない。加島銀行の経営陣は鉄道事業をまったく信用していなかったのだ 。小林のところが危ない――そんな風説が流れて株価は急落する。こうなると、大 口に株主たちも「阪神線撤退」と言い出す。

 八方ふさがりの状態のなか、小林は岸本汽船に岸本兼太郎社長を訪ねる。鉄道事 業の魅力を語り、最後に「助けてください」と頭を下げた。ついでながら、岸本兼 太郎は播磨の人・岸本五兵衛の長男で、回船業で成功を収めた腹の据わった人物だ 。箕面動物園を作るとき、出資者の一人であった。その岸本はじっくりと小林の話 を聞いた。わかった、カネを出そう――最後に岸本は言った。鉄道事業はリスクの 大きな事業である。その事業に300万円のカネを出すことを約束した。小林は小 躍りした。小林は自伝の中で、阪急の恩人として岸本を最大級の賛辞をもって感謝 の気持ちを表している。これで危機は乗り切った。箕面電気軌道、灘循環電気鉄道 を統合し、新たに阪神急行鉄道が発足を見るのは大正7年のことだ。しかし、小林 一三の前にまた新しい難題が吹き出す。

 鉄道事業とは点と点を定め、そこに線を引き、軌道を走らせる事業だ。だから沿 線の用地買収がもっとも重要な仕事である。しかも沿線には商店街や住宅があり、 そこに軌道を走らせるのだから、厄介な仕事となる。場合によっては立ち退きが必 要となり、騒音が発生するのではないか、と苦情も出る。立ち退きの保証金も必要 。それは往事も現在も基本的に変わらない。大阪〜神戸間の鉄道計画が明らかにな るや、伊丹住民の間から反対運動が起こった。鉄道は生活圏に踏み込むから、反対 運動は熾烈を極め、暴力沙汰まで起こった、と阪神社史に書いている。反対運動の 先頭に立ったのは朝日新聞社主の村山竜平であった。予定線の近くに村山邸があっ たからだ。反対運動には鐘淵紡績社長の武藤山治や内務省から住友に転じ、住友総 理事の職にあった鈴木馬左也など、関西経済界の重鎮たちも加わり気勢を上げた。 関西経済界を敵に回しては、敵う相手ではない。(つづく)