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第4回 「鈴木三郎助――味の素の創業者(4)」

★「味の素」誕生の瞬間
 できた!できた!――と、喜びの知らせが入ったのは、ちょうど金策に駆け回っているときだった。事業化を目指し、実験をはじめて2年近くがたっている。辛う じて生活費を稼ぐことができたのは、葉山に残したかじめ工場のおかげだった。忠 治の掌には、確かに白い粉末がのっている。どれどれ――と、三郎助は指でつま み、口に入れてみる。美味い!と思わず叫んだ。感動的な「味の素」誕生の瞬間 だ。グルタミン酸の結晶粉生産のメドをつけた。問題はどうやって市場に出すか だ。マーケティングで重要なのは、商品のネーミングだ。いろいろな案が出た。三 郎助の長男三郎が考えた商品名は「味の素」だ。どうだろう?と聞いた。味の素 か、なるほど……。最終判断を下したのは三郎助だった。

 明治42年6月29日のことだった。大枚をはたき、東京朝日新聞に大々的な広告を打った。新聞広告という思い切った手を打ち、こうして世紀をまたぎ、世界的 なブランドになる「味の素」が、市場に登場することになるのであった。しかし、 スタートは芳しいものではなかった。広告の効果はさっぱりで、売れなかったの だ。三郎助は営業を長男三郎に任せた。三郎はチンドン屋にビラをまかせたり、市 電に吊り広告を出したりもした。アイデアの限りをつくしたが、消費者にそっぽを 向かれてしまった。新商品を市場に定着させるのはなかなか難しい。そればかりで はない。工場のある葉山住民から苦情が出た。塩酸が発する臭いが周囲に立ちこ め、それをなんとかせいというのだ。葉山には御用邸もある。住民とのトラブルを 避け、工場を川崎に移す。それがいまの味の素工場だ。

★中華料理と「味の素」の相性
 皮肉なことに「味の素」が売れ出したのは大枚を払い広告宣伝をした日本国内ではなくて、朝鮮や台湾だった。とりわけ台湾からの注文が増えた。しかし、国内需 要はいっこうに増えない。目立つのは、台湾からの注文ばかりだ。どういうことな のか、三郎助は首をひねった。気になる現象である。三郎助は長男の三郎を台湾に 派遣し、実態調査に乗り出す。味の素がどのように使われているか、それを調べる のだ。三郎は台湾の料理店を調べて歩いた。予想はあたっていた。味の素は中華料 理と相性がぴったりだったのだ。そのとき三郎は中国大陸に足をのばし、福州、上 海、南京、漢口、大連などの各地を回る。

 三郎は現地で販売の方法を考えた。三郎は営業の才があった。すなわち、中国大陸に特約店を作ることを思いついたのだ。父三郎助に電報を打ち、許可を求める。 許可を与えたのはいうまでもないことで、三郎助は返電で「まず海外から販路を広 げよ!」と指示を出す。そのとき三郎助が思い描いた販売戦略は「海外から内需へ !」だった。この販売戦略にもとづき、三郎が渡米するのは、中国大陸からもどっ た一年後のことだ。ニューヨークパーク・アベニューに出張所をもうけ北米大陸で 「味の素」を展開する足場を築くためだ。こうして「海外から内需」の販売戦略が 功を奏し、やがて国内需要を喚起する。

★世界に張り巡らせた「味の素」独占権
 三郎助は抜け目のない男だ。特許の意味がよくわかっていた。いまでこそ当たり前の話なのだが、海外戦略を展開するにあたり、欧米はもとよりアジア地域、中南 米に特許権を確立する。排他的独占権を確立することで、池田博士に約束したもう けの3パーセントを確保しようというわけだ。中国ばかりか、欧米でも味の素が売 れた。評判は評判を呼ぶもので、やがて海外での評判が日本にも伝わり、逆輸入の 格好で味の素は国内でも爆発的な売れ行きを示す。白い結晶状の粉末が日本の台所 に浸透し始めた。しかし、思わぬところで味の素は足をすくわれる。奇妙な噂が流 されるのだった。

 その噂が味の素の販売に打撃を与える。味の素の原料は蛇。噂は人伝いに伝わる。蛇が原料では主婦が嫌がるのも当然だ。そんな噂に輪をかけたのが、雑誌に載った グラビアだった。四匹の蛇が味の素の容器を取り巻く図だ。ギョッとさせるに十分 だ。原料や製造法は特許に守られ、秘匿されている。味の素の秘密を明かすわけに はいかぬ。しかし、三郎助は思い切った行動に出た。まず、原料は蛇にあらず―― と、東京の5大新聞に広告を出す。そして味の素の素性を明らかにする。いまでい えば、情報公開というヤツだ。三郎助はプレゼンテーションの名手だったと、先に 書いた。三郎助は同時に広告宣伝の意味をよく理解していた男だ。広告宣伝にはカ ネを惜しまなかった。それが効を奏した。情報公開と大々的な宣伝だ。いまでも十 分に通用する営業戦略だ。それが思わぬ販売効果を上げることになる。それは三郎 助の予想を遙かに上回るものだった。

 先を見込み、三郎助は莫大な投資を行った。川崎のグルタミン酸製造工場は最新鋭の設備を備える一大近代工場に変貌した。そうしたのは、はなはだ芳しくない噂 が流れてからだ。近代設備を広告宣伝に利用するのも忘れなかった。なるほど、味 の素はこんな立派な工場で作られているのか、と家庭の主婦たちを感心させた。狙 い通りと言っていいであろう。しかし、三郎助には心配事があった。それは重大な 問題で、会社の浮沈に関わる問題でもあった。それを解決しなければ、会社の将来 にメドがたたない。心配事というのはまもなく特許の期限が終了することだ。特許 が切れれば、誰でも自由にグルタミン酸を製造販売できる。それにより味の素の排 他的独占は終焉する。それにしても膨大な投資を続けてきた。設備投資と販売促進 のための投資だ。(つづく)