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飲食品でヒット商品をつくる


「あの人気商品はこうして開発された」
「カンロ飴」―日本人に馴染みのある味に
戦後、欧米からキャンディやドロップなどの甘い飴の洋菓子が日本に入ってきた。だが、どの商品も同じような味の飴ばかり。山口県でニッキ飴や、かりんとうなどの菓子を製造販売していた宮本製菓(現カンロ)の宮本政一社長は、もっと日本人の味覚に合い、特色のある飴は作れないかと考えた。

個性がなく金太郎飴状態の飴業界に“和テイスト”で新風を―。戦後になると、欧米からキャンディやドロップなどの甘い飴の洋菓子が日本に入ってきた。だが、どの商品も似たり寄ったりで同じような味の飴ばかり。山口県でニッキ飴や、かりんとうなどの菓子を製造販売していた宮本製菓(創業1912年、現カンロ)の宮本政一社長は、もっと日本人の味覚に合い特色のある飴は作れないかと考えた。飴は水飴と砂糖に味を決める調味料を加えてできる。飴で勝負するとすれば、それは味をつくる調味料だ。どの素材を選んだらいいか、迷い悩んだ挙句、たどり着いたのが昔から日本人が口にして馴染みのあるしょう油だった。しょう油味で甘い味のするみたらし団子がヒントになった。カンロ飴の発売から遡(さかのぼ)ること3年。悪戦苦闘の幕が明けた。

食べられたものじゃない

創業者の宮本政一氏

創業者の宮本政一氏

宮本製菓の宮本政一社長は、飴に添加する材料にしょう油を選び、手始めに市中で手に入るしょう油を入れて飴を作ってみた。だが、熱して柔らかな状態の水飴に砂糖と一緒にしょう油を入れて煮詰めると「真っ黒に焦げてしまい、とても食べられるものではなかった。何度試してみても結果は同じだった」(山口宏営業本部営業企画担当)。市場に出回っている通常のしょう油では対応できないことが分かると、地元のしょう油醸造メーカーに焦げないしょう油の開発を相談。すると「挑戦してみようと」話がまとまった。

しょう油の開発と当時に製法の改良にも取り掛かった。出来上がった飴が翌日にはすべて溶けてしまいひとかたまりになってしまっていた。「どうしたら、飴の形状を維持できるか、ああでもないこうでもないと試行錯誤の連続だった」(同)が、水飴が煮上がってからしょう油を添加すると水分が蒸発し切れず、そのため固まりにくくなっていることに気づいた。
 この経験から、水飴と砂糖を煮詰める際に一緒にしょう油を投入してみた。すると、うまく混ざり合い、製造日の翌日以降も固まった状態を維持できた。同時に煮詰めても焦げないしょう油も完成。「カンロ飴を他社が真似(まね)できないのは、このしょう油のおかげ」(同)というほどの出来栄えだった。気が付けば3年の歳月が流れていた。

2年で東京進出

1955年、日本人に馴染みのあるしょう油を使った飴「カンロ飴」は発売された。カンロは漢字で書くと「甘露」になる。「仏教用語で『天から降る甘い露』との意味。ただ甘いだけではなく、しょう油を使いコクを感じられる味わいの飴だということを示したかった」(同)。
 宮本製菓の本社がある山口県や福岡県などの地方都市で販売すると一気に評判になり売り上げを伸ばした。「初年度の売り上げは宮本製菓の売上高の7-8割を占めた」(同)ほどだ。
 カンロ飴の名前は東に広がり、大阪の大きな問屋から声がかかった。甘い中にもしょう油のうま味のするカンロ飴は大阪でも消費者から支持を得、1957年には「これはいけると、大消費地の東京に打って出た」(同)。発売から2年というスピードで東京進出を果たした。1960年には代表ブランドになったカンロ飴を冠にして社名を「カンロ」に変更した。

口コミでヒット

1957年頃のパッケージ

1957年頃のパッケージ

カンロ飴は爆発的なヒット商品となったが、特殊な販売活動を行ったわけではない。「今のように食品スーパーがあるわけでもないし、試食販売のようなマーケティング手法もなかった。問屋セールスと同行し各所の菓子屋に置いてもらう単純な方法で、口コミで広がっていった」(同)と振り返る。
 大きなガラス瓶に入れセロハン紙で一粒一粒、両端をひねるキャンディラッピングを施し一粒単位で売っていた。当時の売価は1粒1円の飴商品が多いところを2円と強気に出た。それでも売れた。「甘いだけの飴が多い中で、しょう油を使い味に深みを出したカンロ飴は、日本人の味覚にマッチしていた」(同)と分析する。

宮本製菓は以前「生玉(きだま)」という飴を販売していた。終戦当時には食料物資が乏しく、飴に使われる砂糖も質が劣るものしかなかったため「少し黄色がかった飴がほとんどだった」(同)。その中で宮本製菓は質の良い白い砂糖を使い透明な色の飴「生玉」を生産していた経緯もあり、宮本製菓の品質には定評があった。「『宮本製菓の商品なら扱っても安心』との小売店が多かった」(同)ため、流通ルートの開拓に苦難しなかったこともヒットの要因になった。
 伸びる需要を満たすために、1956年には生産工場を新設。以前は従業員が手作業でラッピングしていたが、自動化されたことで生産量は飛躍的に伸びてった。

需要を喚起

営業本部の山口宏さん(左)とマーケティング統括本部の武井優さん

営業本部の山口宏さん(左)とマーケティング統括本部の武井優さん

だが、人気を博したカンロ飴も時代の変遷とともに、売り上げが安定しなくなっていった。「カンロ飴にはヘビーユーザーがついている。代替的な宣伝は不要で、ほっておいても売り上げはついてくると安易に考えていた」(同)。
 テコ入れのため、発売50周年となる2005年に、原点を見つめ直すという意味からパッケージに発売当初のロゴに近いデザインを使用するととともに、著名なデザイナーが手がけたバッグをプレゼントするなどのキャンペーンを実施。すると、徐々に売り上げが回復していった。

「小さいころなどに一度は食べたことがある人が多い。もう一度、需要を喚起することで『あ、この味』と思ってもらえ、食品スーパーでの取り扱いも増えた」(山口宏氏)とほほ笑む。口に入れると、どことなく懐かしい感じられるカンロ飴のあの味は、今も日本人の口の中に残っている。

企業データ
カンロ株式会社
代表取締役社長:村上和夫
東京都中野区新井2-10-11
掲載日:2013年3月21日


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