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飲食品でヒット商品をつくる


「あの人気商品はこうして開発された」
「シガール」―人を幸せにするお菓子を作り続けたい
中堅チョコレートメーカーとして確かな地位を築いていたヨックモック創業者の藤縄氏であったが、大量生産・大量消費の時代を迎えると、中小メーカーの経営は厳しい状況となった。そのような折、組合で欧州へのチョコレート文化視察が行われた。チョコレートに目を奪われがちになって当然の中、藤縄氏には出発当初からある考えが頭の中にあった。

バターの豊かな香りと、舌触りの良い生地が2重に巻かれ葉巻のような形状が特徴の焼き菓子「シガール」。洋菓子ギフト商品で常に百貨店売上上位に入るほどの定番商品だ。販売促進のためにTVCMなどのマスメディアを積極的に活用したことはなく、人気の味はただただ「口コミ」で広がっていった。1969年11月に発売された同商品は、後にヨックモック創業者でシガール生みの親となる藤縄則一氏の欧州でのある“ケミストリー(化学反応)”がなければ世に出ることはなった。「根っからの洋菓子屋さん」(広報チームの川島里美氏)だった藤縄氏の菓子にかける思いと、欧州の菓子文化が交差した時、まったく新しい発想の商品が生まれた。

終戦後に再スタート

創業者の藤縄則一氏

創業者の藤縄則一氏

ヨックモック創業者の藤縄則一氏は、幼い頃より東京の下町で兄の立ち上げた「藤縄商店」にて菓子などを販売していた。

このまま、菓子店を営んでいけると思っていたところに、太平洋戦争が勃発。戦中になると食料統制により、藤縄氏は防錆加工という軍需産業への転換を余儀なくされた。

日本がポツダム宣言を受諾し1945年8月15日に大戦が終結すると、藤縄氏はもう一度菓子屋を再開。商売が活気を呈してくると、当時需要の高かったチョコレートの製造をしようと決意。1946年ころから製造に着手した。当時はチョコレートの原料となるカカオ豆の輸入が禁止され、原料のカカオ豆が少なかったため「比較的手に入りやすかったグルコースと米国製のチョコレートを少量混ぜオリジナルのチョコレートを作っていた」(同)という。

戦後の食糧難の中で甘い物の需要は大きく、原料のカカオ豆を安定的に供給したり、均等に振り分けたりするための体制づくりが業界として急務となった。その業者組織化のためのリーダー的な役割を演じた経営者の1人に藤縄氏がいた。

その後高度経済成長期が到来し、チョコレート業界においても各メーカーは機械化を推し進め、チョコレートの需要は順調に伸び、藤縄氏もまた中堅チョコレートメーカーとして確かな地位を築くことができた。

欧州視察中の藤縄氏

欧州視察中の藤縄氏

しかし、大量生産・大量消費の本格的な高度成長時代を迎えると、中小チョコレートメーカーの経営は厳しい状況となった。

そんな中、1969年5月、組合で欧州へのチョコレート文化視察が行われた。チョコレートだけに目を奪われがちになって当然だが、藤縄氏は違っていた。出発当初からある考えが頭の中にあった。「チョコレート業界にも企業規模に差ができてきた。中小企業が厳しい競争を勝ち残っていけるのか―。人を幸せにするお菓子は作り続けたい。そのためには他社との差別化が必要」(同)と考えていた。

絵画がヒントに

洋菓子屋を続けていくための方法を思案しながら欧州視察を続けていた藤縄氏の目に、ある食品がとまった。それは欧州ではポピュラーなラングドシャというクッキー生地だった。同生地は表面にうっすらとプツプツした穴が開いていて猫の舌に似ていることからフランス語で「猫の舌」を意味するラングドシャとの言葉が使われた。藤縄氏の何とか洋菓子店を続けたいとの思いが、ラングドシャという新しい発見を引き寄せた。

ラングドシャとの出会いが運命を変えた

ラングドシャとの出会いが運命を変えた

ラングドシャのプツプツとした穴は、生地を焼き上げる時気泡によってできたもので、ふんだんに使われたバターの濃厚な味わいと滑らかな舌触りが特徴となる。日本に帰った藤縄氏は、配合や薄い生地作りについて試行錯誤を繰り返した。バターをこれ以上使うと生地の形を保てなくなるほど使って焼き上げた。食べてみるとバターの濃厚な味と香りが口の中にふわっと広がった。

だが、すぐに問題が浮上した。「バターを焼いているようなもの。お菓子の限界ギリギリまでバターを使用し、小麦粉はつなぎ程度に少量しか使っていない」(同)ため、割れやすく売り物にならなかった。生地の強度を高めるための方法が必要となった。

そんな折ヒントを求めて手元にあった画集を眺めると、リュバン・ボージャンの「巻き菓子のある静物絵」に描かれた巻き菓子が目に入った。「これだ!生地を巻いてみよう!」とひらめいた。焼きあがったばかりで柔らかい生地を手で巻いて冷ましてみると、思った通り強度が増し箱や缶に詰めても割れなかった。

商品名は形状が巻きたばこに似ていることから「シガール」に決まった。

老舗百貨店から太鼓判

発売当初は生産が追いつかないほど人気に(昭和45年当時のシガール)

発売当初は生産が追いつかないほど人気に(昭和45年当時のシガール)

面識のある東京・日本橋の三越本店にシガールを持っていくと、試食をした食品部長から「これはいける!」と太鼓判をもらった。時代は高度経済成長期、百貨店としても新しい商品を必要としていた。「当時の百貨店にもクッキーはあった。だが、従来のクッキーは日持ちがするようにマーガリンやショートニングを用いたものが主流。その中で、バターのコクと繊細な口どけ、縦長で薄い生地を巻いた形状はインパクトがあった」(同)。

発売当初は店頭に並べると、すぐに完売し生産が追いつかないほどで「百貨店が驚くような売り上げを記録した」(同)という。TVCMなどを使った大がかりな宣伝活動をしていなかったが、シガールのおいしさは口コミで広がり、三越以外の百貨店からも声がかかるようになった。

まるで手で巻いているかのような機械設備を構築

まるで手で巻いているかのような機械設備を構築

生産量が増えるに連れて課題になってきたのが生産の自動化だ。機械設備がなかった当時は、焼き上がったばかりの熱い生地を、職人が手で巻いていたため、生産量に限界があった。

需要に応えるために機械化が必須となったが、問題は人の手による加減を機械でどう再現するかだった。「お菓子の特性に合わせて機械を設計することにこだわった。まるで手で巻いているかのような機械設備を構築した」(同)と自信を見せる。それまであった東京の工場に続き、シガール生産がメインの工場は1972年に稼働、膨れ続ける需要を満たせるようになった。

ただ、生産はライン化できてもバターや小麦粉など材料の保管や生地の状態は、担当者が細かく確認している。「気温や湿度など、その日に最適な生地作りには担当者の目が必要になる」(同)。

お菓子の原点を再確認

「お菓子のことで何時間も話し合うのは社風」と語る川島里美さん

「お菓子のことで何時間も話し合うのは社風」と語る川島里美さん

1969年の欧州視察から藤縄氏が持ち帰ってきたのは、シガールのアイデアだけではなかった。視察先のお菓子屋さんでは店の裏手で焼き、出来上がった商品はすぐに店頭に並べられていた。出来たての商品を親に買ってもらった地元の子どもはうれしそうにお菓子を抱えて帰っていったという。「藤縄はこの光景を見て『これだ!』と気づいた。作ったらできるだけすぐに提供する、これがお菓子の原点だと改めて実感した」(同)。大手企業と対等に渡り歩くのではなく「商圏は狭くなるかもしれないが、大量生産する大手とは逆の発想で、真心を込めて手作りで鮮度のよいお菓子をお客さまに届けようと考えた」(同)。

「工場で作った商品をワンステップでお客さまに届けられるようにするのが課題だった。『出来たての商品をすぐに提供する』藤縄の理念を体現できたのが、1978年3月にオープンした直営店の『青山本店』」(同)だ。

ヨックモックとしてはシガールの生地に手を入れたことはないという。そのため1969年11月の発売以来、味は変わっていない。それでも消費者から支持を得続けられるのは「社員一人ひとりがお客さまのことを考えているから。会議が長引いているかと思えば、お客さまにどうすれば喜んでいただけるかという内容だったりする。お菓子のことで何時間も話し合うなんておかしなことだと思うこともあるが、これが社風」と川島氏は微笑む。

企業データ
株式会社ヨックモック
代表取締役社長:渡邊太郎
東京都千代田区九段北1-8-10(住友不動産九段ビル)
掲載日:2013年3月14日


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